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統合幕僚監部

43 :globalyst:2019/01/28(月) 21:57:47 ID:QOtG+G24
>それぞれの能力を100%使っていないことを残念に思っていたところ、どういう発想は間違っているのではないか、と考えを改めつつある(大田。コラム#10341)

に関連して、太田さんは以前にも(といっても最近のことですが)

>しかし、これについても、考えを改めつつあります。
 日本が20世紀末に高度成長を止めたのは、縄文モードの深化のせいだ、と、私は指摘してきたところ、人々が能力の最大限発揮を回避する、というのも、縄文モード深化の賜物なのではないか、と。
 というか、縄文時代、遡っては、狩猟採集時代、の人々もそうだったのではないか、それこそ、人間の本来の姿ではないか、とも。
(コラム#10269 太田。)
と言ってました。

狩猟採集社会については、
>「以前は「厳しい食料事情によって余剰食物が出ることは稀」とされていたが(生存経済)、民族誌の蓄積により、彼らは生存に必要な量の倍の食料を生産できるにも関わらず、また原始農耕よりも労働時間が少ない過小生産傾向によって、余暇を生みだし生活していることが判明して」います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E7%8C%9F%E6%8E%A1%E9%9B%86%E7%A4%BE%E4%BC%9A

もちろん、これは日本の縄文時代のことではなくて、現在の地球上に残る狩猟採集社会の説明なのですが、日本の縄文時代も似たようなものだったのではないでしょうか。

日本各地の縄文時代の地層からイネのプラントオパールが見つかり、縄文時代には稲作がなされていたことが、ほぼ確実視されるようになり、
(例えば、岡山県灘崎町の彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前))
https://kotobank.jp/word/6000%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E9%81%BA%E7%89%A9-186079

三内丸山遺跡(約5500年前)では、栗の木を栽培していたといわれていますので、
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310001_00000

縄文人の生活も単なる狩猟採集ではなく農耕もやっていたのでしょう。この点、縄文時代に行われてたとされる稲作は、水稲ではなく陸稲である可能性が高く、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C#%E7%B8%84%E6%96%87%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E3%81%AE%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7

「<陸稲は>水田を作らずに畑に作付けできることから育成が容易である…。水稲の場合、直播と移植の両方の栽培方法があるが、陸稲では種籾を畑に直播するのみであり、移植栽培はない。陸稲では、水稲の移植栽培のように、苗の育成や田植えなどの手間のかかる作業を省けるという利点がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%A8%B2

というのですから、縄文人の稲作も「生存に必要な量の倍の食料を生産できるにも関わらず、また原始農耕よりも労働時間が少ない過小生産傾向によって、余暇を生み」出すような(手間暇をかけない)稲作だったのでしょう。
もちろん、栗の木は秋に実がつくまで放ったらかしだったでしょう。

昨年、東京国立博物館の特別展示「縄文―1万年の美の鼓動」を見てきたのですが、そのとき、縄文土器は単なる生活用品ではなく工芸品であると思いました。と同時に、縄文人は、けっこう暇だったんだな(豊かな生活を送っていたんだな)とも感じました。

私も、「縄文時代…の人々もそうだった」、つまり、縄文人は、能力の100%を生産のために使わずに(=あまり一所懸命には働かなかった)、結構、余暇を楽しんでいたのではないか思います。



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