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タイトルコラム#1758(未公開)のポイント
記事No375
投稿日: 2007/05/06(Sun) 18:01
投稿者太田述正
 コラム#1758(2007.5.6)「米国とは何か(続々)(その3)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
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 共和制ローマも米国も、その歴史は膨張の歴史であったと言っても過言ではありません。
 ローマは共和制時代に、エジプトとイギリスこそまだ領土化していませんでしたが、ほぼ帝政の絶頂期に匹敵する領土をもつ超大国になりますし、米国は太平洋と大西洋という両洋に面した大大陸国家へと変貌を遂げます。
 そのプロセスはいかなるものであったのでしょうか。

 まず、ローマから始めましょう。
 共和制ローマは、貴族階級(patrician)と平民階級(plebeian)の対立を克服しつつ共和制の諸制度を整備するために成立後約100年を要しましたが、その頃になって、エトルリア系の王を追放した際に、エトルリア人に奪われた旧ローマ領を奪い返そうという気運が高まります。
 それに成功すると、再びこの領土を奪い返されないためには、エトルリア人の最大の拠点を攻略すべきであるということになり、ウエイ・・というローマ北方の都市の攻略を行い、それにも成功します(BC405〜396年)
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 こうして北方を固めたローマは、今度は南方に向かいます。
 南方にいたのはサムニウム(Samnium)人でした。
 攻略のきっかけは、分派ができてサムニウム人が仲違いを始めたことです。
 ローマは、サムニウム人達との間で不可侵条約を結んでいましたが、そんな条約は無視して分派への梃子入れを始め、戦争が起こります・・。結局、サムニウム人との一回目の戦い(BC343〜341年)は失敗に終わります。
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 サムニウム人との二回目の戦い(BC326〜304年)は、サムニウム人地域に入植したローマ市民とサムニウム人とのいざこざが発端となりました・・。今回はローマはサムニウム人を屈服させることに成功します。
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 その後、サムニウム人は、北方のエトルリア人やケルト人と連携して、ローマに最後の抵抗を試みます(BC298〜290年)が、ローマは勝利し、イタリア半島中部はローマが制するところとなるのです。
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 次いでローマはイタリア半島南部を目指します。
 イタリア半島南部とそのむこうのシチリア島には、ギリシャの植民市がたくさんありました。
 ここでも、ローマのつけ目はギリシャ植民市の間の内紛でした。
 ローマに助けを求める都市の呼びかけに答え、ローマは半島南部にいくつか軍事駐屯地を築きます。
 ギリシャ植民市のうち最大のターラント(Tarentum)は、ローマの脅威をひしひしと感じていたところ、ターラント港にローマ軍船5隻が闖入し、これはローマ軍船のターラント入港を禁ずるターラント・ローマ間の条約違反だとして、ターラントによって、これら軍船が攻撃され、乗員は全員殺害されるか奴隷に売られてしまう、という事件が起きます。
 そこで、ローマとターラントは戦うことになるのですが、ターラントの助っ人として、ギリシャのエピロス(Epirus)の王ピュロス(Pyrrhus)がイタリアにやってきてローマと戦う(BC285〜280)のです。
 苦戦しながらも、最終的にこの戦いに勝ったローマは、やがてローマ半島南部を完全に手中に収めます。
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 以上だけからも、共和制ローマは、「本来の」ローマ領の回復をめざす、相手の内紛に介入する、相手の地域にいる自分の市民を「保護」する、軍事的挑発を行って相手に戦いの火ぶたを切らせる、といった手口で次々に戦争を始め、領土を拡大して行ったことがお分かりいただけると思います。

 この共和制ローマとほぼそっくりの手口を使って領土を拡大して行ったのが米国です。

(続く)