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タイトルコラム#1787(未公開)のポイント
記事No454
投稿日: 2007/05/30(Wed) 21:18
投稿者太田 述正
 コラム#1787(2007.5.30)「イギリス内戦(その1)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
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 イギリス内戦(English Civil War)と聞くと、一体何のことだ、と思われる方もいるかもしれません。
 そういう方は、1642年から1651年(内戦の最後の戦いが行われた年)にかけてのイギリスでの内戦のことだと申し上げれば、なんだ、清教徒革命(1642〜49年。1649年はチャールス1世が処刑された年)のことか、と拍子抜けされるのではないでしょうか。
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 そこで、できたてのほやほやのケンブリッジ大学歴史学フェローのアダムソン<の本>の紹介を兼ねつつ、私のイギリス内戦に関する所見を申し述べることにしましょう。
 以前(コラム#1489、1501、1515、1570、1586で)、「イギリスに産業革命はなかった」という話をしましたが、今回は、これと対になるところの、「イギリスに市民革命はなかった」という話のシリーズであるとお考え下さい。
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 イギリス内戦については、最初の頃は、イギリス大叛乱(Great Rebellion)と呼ばれて、否定的な評価がなされることが多かったのですが、次第に絶対王政から近代化への第一歩と評価されるようになり、清教徒革命、ないしイギリス革命(English Revolution)と呼ばれるようになります。
 もう少し詳しく申し上げると次のとおりです。
 例えば、哲学者のロック・・ は 、財産・自由の保全のための革命権の行使を肯定していたにもかかわらず、イギリス大叛乱は「暴徒」に国政を牛耳られた不名誉な事件であり、1688年の名誉革命はその汚名をそそぐものであったと主張しました。また、その原因は無知で横暴なチャールズ1世・・にあったと指摘したのです。
 その後、イギリス大叛乱改め清教徒革命は、フランス革命等に先行するところの、専制・封建制に対する自由・資本主義の闘い、国王に対する議会の戦い、として肯定的に評価されるようになります。これを自由主義・・史観といいます。
 やがてマルクス主義史観が広まると、清教徒革命は市民革命(ブルジョワ革命)に分類されることとなり、イギリス革命と呼ばれるようになります。そして、この理論は日本にも輸入されて、経済史家である大塚久雄・・らによって日本で通説化します。
 そこへ、1970年代に入ると英国で、自由主義史観ないしマルクス主義史観なる正統学説に対し修正主義史観が提示されるようになります。
 修正主義史観には様々なものがあるのですが、清教徒ないしイギリス「革命」の必然性と断絶性を否定し、この「革命」は必ずしも社会の近代化をもたらさなかったと指摘する・・とともに、これをイギリス内戦と呼ぶケースが多い、という共通の特徴があります。 ・・
 これだけで、「イギリスに市民革命はなかった」という話を終えても良いわけですが、それなら、17世紀前半にイギリスで起こった、王殺し(regicide)を含むところの大事件は一体何であったのか、をご説明しておきたいと思います。
 ここで、冒頭で言及した最新の説をご紹介しましょう。

(続く)