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タイトルコラム#1797(未公開)のポイント
記事No505
投稿日: 2007/06/06(Wed) 23:06
投稿者太田 述正
 コラム#1797(2007.6.6)「名誉革命(その2)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 ・・
 (「その1」(コラム#1794)の最後の文章を訂正しました。ブログか掲示板でご確認下さい。)

 ・・名誉革命に関する最近の説におおむね共通する点<は次のとおりです。>

 ・「名誉」革命ではなかった

 名誉革命の「名誉」とは、流血がほとんどなかったことを指しているわけですが、このことは現在では否定されています。
 
 なぜなら、まず時間軸で申し上げれば、名誉革命のちょっと前・・には、・・モンマウス公爵・・の・・叛乱・・事件が起こりましたし、名誉革命の翌年の1689年には、亡命していたジェームス2世が王位奪還のためにフランス軍を引き連れてアイルランド南岸に上陸する・・という事件が起こりましたし、ジェームスの息子・・がからんだ叛乱が1714〜15年に、そしてジェームスの孫・・のスコットランド上陸とそれに引き続く内戦(コラム#181、1136、1696)が1745〜46年に起きたからです。

 そして、次に空間軸で申し上げれば、スコットランドとアイルランドで反ウィリアム3世の叛乱が起きて激しい戦闘が起き、・・イギリス政府軍による大虐殺事件が起きていますし、スコットランドでの叛乱は断続的に1746年(上述)・・まで続いたと考えることもできるからです。
 また、空間的視野を更に広げれば、名誉革命の10年ちょっと前・・には、・・ベーコンの叛乱・・がバージニア植民地で起こっていますし、名誉革命の翌年の1689年から1697年まで、ウィリアム王戦争・・という、イギリスにとって、かつての対スペイン戦争(1585〜1604年)と並ぶような長く苛烈な対外戦争が起こっているからです。

 ・名誉「革命」ではなかった

 イギリス内戦の時のように一般庶民が関与したわけではないこと・・もあり、名誉革命は、社会的な「革命」というよりは、・・クーデタ的なものであったととらえられています。
 ・・
 例えば、ウィリアム3世は、それまでの国王に比べてイギリス議会により注意を払うようにはなりましたが、それは自分に忠誠を誓う<人々>を沢山議会に送り込んだ後のことですし、自由な言論が・・戦わされるようになったことは事実ですが、これは政府のおかげどころか、政府の弾圧にもかかわらず起こったことですし、制定された権利の章典・・は、既にイギリスで確立していた自由権を再確認しただけのものでした・・。

 ・しかしその後結果として革命的変化が起きた

 とはいえ、名誉革命の意図せざる結果として革命的変化が起こった、ということも指摘されるようになりました。
 例えば、少なくともプロテスタントの各派については信教の自由が完全に認められるようになりましたし、出版物への政府の介入もなくなりました。
 またウィリアム3世がフランスとの戦争の戦費を必要とした結果、議会が定期的に開かれるようになるとともに、議会で政府の出費の審議が行われるようになり、国王による任命についても議会による承認が必要になりました。
 そして、政党政治が始まり、国王大権の時代は完全に過ぎ去ります。

 ・名誉革命は英領北米植民地に大きな影響を及ぼした

 このところ光が当てられるようになったのが、名誉革命が英領北米植民地とオランダに大きな影響を及ぼした、という点です。
 まず、北米植民地についてです。

(続く)
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<太田>

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