太田述正コラム#9533(2017.12.20)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その16)>(2018.4.5公開)

 「1914年<7月に第一次世界大戦が始まるが、>1916年11月、ドイツ・オーストリア両国は、ロシアから奪取した土地にポーランド世襲王国を建設すると宣言した。・・・
 1917年・・・9月、ワルシャワにポーランド王国の執行機関である摂政会議が設けられた。
 <しかし、その頃には>ドイツの敗北は決定的となっていた。
 <ドイツを始めとする>同盟国軍は軍事作戦をやめ、摂政会議はピウスツキ<(注39)(コラム#8599)>にポーランド軍の指揮権を委ねた。

 (注39)1867~1935年。「ポーランド共和国の建国の父にして初代国家元首、国防相、首相。ポーランド軍創立者にして元帥。独裁的な政権で同国を盛り立てたことで知られる。文化人類学者でアイヌ研究家のブロニスワフ・ピウスツキは兄。・・・
 ロシアの農村・・・(・・・現在、リトアニア領・・・)にて没落したポーランド貴族の家庭に生まれ、ヴィリニュス(後にポーランド領、現リトアニアの首都)の学校に通う。母親マリアから当時ロシア政府によって禁止されていたポーランド語の読み書きと自国の歴史を学ぶ。・・・1886年からハリコフ大学で医学を学ぶ。
 ところが、1887年3月、ロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画が発覚。レーニンの兄であるアレクサンドル・ウリヤーノフを含む首謀犯は死刑となる。彼らに近かった・・・ピウスツキは捕えられ、懲役15年の判決を受け・・・イルクーツク周辺へ流刑となる・・・
 1892年、解放。ヴィリニュスに戻り、ポーランド社会党を創立。地下新聞「Robotnik(労働者)」を発行する。1900年、政府によって投獄されるが、発狂したとみせかけ、サンクトペテルブルクの精神病院へ移送されたところを脱走。1904年7月、日露戦争中の日本を訪問・・・
 1908年、後のポーランド軍となる私設軍隊を創設する。
 1914年、第一次世界大戦勃発。・・・1917年、ウィルソン米大統領、十四か条の平和原則を発表、ポーランド建国を提言。・・・このとき、ピウスツキはポーランド軍がドイツ・オーストリア軍の一部となることを拒否したため、・・・投獄される。
 1918年11月、ドイツ革命が起こると、ピウスツキは出獄してワルシャワに戻り、ポーランド第二共和国国家元首となる。翌年1月、パデレフスキ首相による内閣発足。1920年のポーランド・ソビエト戦争ではフランス軍の協力により勝利する。
 1921年に・・・「三月憲法」<が>制定<される>。これは議会の力を強め大統領の権限を弱めるものであったため、ピウスツキは大統領には立候補せず、1923年に引退を宣言。しかし、初代大統領のガブリエル・ナルトヴィチが・・・暗殺されたことや、短期政権による場当たり的な政策から激しいインフレが引き起こされたことから、国家は混乱に陥った。
 1926年5月12日、ピウスツキはクーデター「五月革命」を起こ<し、>・・・数日で勝利した。犠牲者は500人程度だといわれている。ピウスツキは大統領にはならず、国防相と首相の立場から実権を握った。この独裁期間は反対者を収監するなど、ファシスト的な独裁ではあったが、政治腐敗の一掃を行ったため、サナツィア(清浄化)体制と呼ばれている。ピウスツキは反ユダヤ主義に否定的で、かつてのポーランド・リトアニア共和国・・・のようにポーランドを諸民族が融和するコスモポリタンな多民族国家として育てようと考えており、この点でサナツィア体制はファシズムとは異なる。・・・
 1932年にソビエト連邦とソ連・ポーランド不可侵条約を、1934年にはナチス・ドイツとドイツ・ポーランド不可侵条約を結んだ。これらの条約はドイツやソ連を利するものだという批判もあった。ピウスツキは不可侵条約による安定は長くは続かず、いつかはナチス・ドイツやソ連がポーランドを侵略しようとするだろうと考えていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%84%E3%82%AD
 「ハルキウ・・・は、ウクライナ北東部の都市である。ハルキウ州の州都。日本ではハリコフ・・・の名でも知られる。人口は約145万人。人口ではキエフに次いでウクライナで2番目に大きな都市である。ウクライナの工業の中心で、ソビエト連邦においても、モスクワ、レニングラードに次ぐ第3の工業都市であった。・・・1805年に開設されたハルキウ大学があり、文化・教育の中心地でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A6

 11月7日、臨時政府が樹立された。
 4日後の11月11日、第一次大戦が終了し、ポーランドは123年ぶりに独立を回復した。」(70~71)

 「ショパン(Chopin)はポーランドの姓ではない(父親がフランス人)<(注40)>。
 (注40)「ショパン<(1810~49年)>の父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人である。1794年のコシチュシュコの蜂起においては、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へと昇格していた。・・・元来外国人であった彼であるが、時とともに完全にポーランドに馴染んでいた。ポーランドの<一>歴史家・・・によれば、彼は「自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」のだという。・・・<結婚相手は、没落>シュラフタ・・・の娘<だった。>・・・
 11歳のショパンは、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたロシアの皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露した。・・・この頃、ショパンは時おりポーランド立憲王国の副王であったコンスタンチン・パヴロヴィチ大公の息子の遊び相手としてベルヴェデール宮殿に招かれており、ピアノを弾いて怒りっぽい副王を魅了していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3

 「激しい一撃」の意である。」(24)

⇒このくだりには「激しい一撃」を受けました。
 小さい頃から現在まで、私が弾くピアノ曲の過半がショパンの作品だったというのに、今の今まで、彼が「純粋な」ポーランド人であることをつゆ疑ったことがなかったからです。
 小さい時から、彼が、私にとって、余りにも身近な存在であったことから、一種、私の盲点になっていたようです。
 彼が1831年から亡くなる1849年まで、基本的にパリに住んだ(上掲)のはどうしてかも、初めて得心がいきました。
 天才ショパンは、ポーランドにおける突然変異なのではなく、時々出現する、混血故の天才、だったのですね。(太田)

(続く)