太田述正コラム#11005(2019.12.25)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その8)>(2020.3.16公開)

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[福澤<ら(?)>の儒教批判が支那において果たした歴史的役割]

一、中国国民党は、私の言う、「万物一体の仁」ならぬ古い仁・・マークI仁・・を抱懐するところの、マークI儒教、を信奉していた。

 (一)孫文

 竹内弘行(注6)の論考
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/60835/cks_017_001.pdf
からの下掲の抜粋を参照されたい。↓

 (注6)1944年~。「中国思想史家。・・・博士(文学)。名古屋大学大学院中退後、九州大学助手、高野山大学専任講師、名古屋学院大学助教授、名古屋大学大学院教授を歴任。退官後、名古屋大学名誉教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%BC%98%E8%A1%8C

 「・・・孫文は、・・・一八七二年・・・七歳にして始めて私塾に入って『三字経』.『千字文』等を読み、・・・儒教の基本概念を<学んだ。>・・・その後も当時の子供がしたように四書五経の選読に進み、塾師の高い評価を得ている。これが一四歳の六月にハワイに行くまで続いたのだ。・・・
 一九一七年・・・七月ニ―日、孫文は、人心の確立を目的とした・・・講演を行った。これが<翌一九一八年>にまとめられて『孫文学説』となった。・・・
 <同>書は、伝統儒教経典の『書経』説命中篇にみえる「知るは易く、行うは難し」の説と、明代の王陽明によって唱えられた「知行合一」の説を俎上にあげ、ともに <支那>の発展を阻害した誤った説であったとし、改めて、孫文自身が発明した「行うは易く、知るは難し」の説を闊明にして、人心の改革を図らんとしたものであった。・・・

⇒孫文はゴリゴリのマークI儒教信奉者だった、と言って差し支えない。(太田)

 <その中で、>日本の明治維新の成功を陽明学(知行合一説)のたまものとする論調を反駁し「日本の維新は皆、之を行って其の道を知らざるに成ったもの」だと言い、知行合一説は科学的思考になじまず、近代化には弊害があると指弾している。・・・

⇒孫文の明治維新についての認識不足が露呈している。(太田)

 孫文によれば、この世には、(一)先知先覚者、(二)後知後覚者、(三)不知不覚者の三者がおり、先知先覚者が発明したことを、後知後覚者が宣伝推行し、それを不知不覚者が実行することで事業が成立する。・・・
 この場合、注意すべきは(三)不知不覚の労農大衆の前では、知ることが難しいかどうかといった事は問題外となり、結局、知が問題となるのは、(一)先知先覚者と(二)後知後覚者の二者、つまり知識人、指導者、党員、など社会の上位を占める人についてであった。これは、この時の孫文の思想が人間を完全な平等として見るのではなく、知行を問題にする上位支配層と不知不覚の下位労農大衆層に二分していたことを意味する。そして彼がはじめから問題にしていた「人心」とは、この上位層の人心であって、下位の大衆層 ではなかったことである。このことは、近代化が国民国家を形成するために全人民的啓蒙教育をめざす必要があった(例えば、明治国家が、兵役と納税とあわせ義務教育をうけることを国民の「三大義務」とした事実をみよ)のに、『孫文学説』では、国民の大多数の労働者農民ら一般人は、不知不覚者と認定されて後まわしにされているのである。こうした思考は、当時の 中国社会の状況を如実に反映したものであろうが、同時に伝統儒教思想の愚民観とも安易に妥協することになった。

⇒孫文は、マークI儒教の核心部分・・「知徳の優れた人を「君子(くんし)」と称するが、君子はまた治者をも意味した。その反対は「小人(しょうじん)」であるが、被治者である小人には自身で修養する能力はなく、治者(君子)の教化をまって初めて道徳的たりうるとされる。さらに最高の知徳を備えた人を「聖人」と称するが、聖人とは同時に帝王として天下に君臨すべきものとされ<る。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%84%92%E6%95%99-77576 ・・を信じて疑わなかったというのだから、ここからも、マークI儒教の信奉者であったと言えよう。(太田)

 『論語』泰伯篇にみえる「子日く、民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」と言う文章<について、>・・・孫文は原文の「不可使知之」(知らせるなという不許可の意)を「不能使知之」(知るようにさせるのは 不可能だという可能性の否定の意味)と解釈して、「知ることの難しさ」を強調しているのだが、大局的にみれば、伝統儒教の人民観(愚民観)と妥協していることは、否定しえないであろう。

⇒筆者の竹内も、まさに、そのように見ているわけだ。(太田)

 『孫文学説』のふまえた人間観が、以上のような三分説(発明者党首ー鼓吹者党員ー実行者労農大衆)によるとすれば、それはまた容易に、封建体制下の君–臣–民庶の三分をふまえたものと想像できよう。しかも、孫文は、先知先覚の党首と後知後覚の党員の間に上意下達の知の方向のみならず下からの一方的な忠誠をも要請しているのである。・・・
 従って、一九二四年の『三民主義』連続講演において、孫文が忠孝など旧道徳の回復の必要性を強調し<た>・・・のも、何ら突然の事態ではないのである。・・・
 忠孝の「孝」の方は、民国になっても認められていたが、「忠」に<についても、>・・・「忠」の道徳とは、事業の完遂に向けての終始一貫した尽力の意味であって、その為には死をもいとわぬ精神が生まれて当然だ、という。旧時の 君主一人に対する忠誠は、今は国家、あるいは「四億国民の為に忠誠を尽くす」ことに他ならない、とい<うのだ。>・・・
 <一九二0>年一一月、上海の中国国民党本部で演説した孫文は・・・、(民主)主義など政治上の原則は、憲法や法律で規定する「法治」上の事項であるが、政党内の場合は、党首個人の独裁という 「人治」による行動こそが、その党の目的を達成する上で有効である、と<述べたのだ。>・・・

⇒孫文は、マークI儒教に忠実に、「聖人」たる国民党党首を「君子」たる党員達が無条件で輔翼し、その党が「小人」たる民を善導する形で統治すべきである、と主張していたわけだ。(太田)

 一九二三年末より、孫文は共産党との合作に動き、 翌一九二四年一月二0日より二三日まで広東省広州に て開催された第一回中国国民党全国代表大会にて、連ソ・容共・労農扶助の三大政策が採択されることになるが、こうした孫文の共産主義思想の受容にも、彼の儒教思想評価は役立っていたのではないかと思われる。それは、当時のソビエト共産党の組織原則が、「鉄の規律」による上意下達の服従主義と独裁体制をとっていたといった形式的な類似性もあるが、そればかりではない。これよりさき、一九二三年―一月 一五日、孫文は日本の犬養毅に長文の手紙を書いて、日本の<支那>侵略を止めるよう要請するかたわら、<支那>がソビエト・ロシアを承認しともに列強に対抗せんとしていることを知らせ、日本も同調するよう求めた。その手紙の中で「夫の蘇維埃(ソビエト)主義は即ち孔子の所謂大同<(注7)>なり」として<いるのだ。>」

 (注7)「儒家の経典の一つである《礼記(らいき)》礼運篇に見えることば。孔子は,遠い古代には〈大道〉(すぐれた道徳)が行われていて天下は公有のものであったとされて,公平で平和な共産的理想社会を描き,それに反し,今日は〈大道〉がすでに隠れて,天下は一家の私有となり,私利私欲の横行する混乱した社会になったと嘆いている。この大同思想に似た,土地・家屋の均分公有という思想は,歴代の宗教的農民反乱のなかでしばしば提起され<た。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%90%8C%E6%80%9D%E6%83%B3-91681

(続く)