太田述正コラム#11582(2020.10.8)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その32)>(2020.12.31公開)

 「・・・また中国での重要な祭祀として、皇帝の祖先をまつる宗廟があるが、伊勢神宮が天皇家の宗廟として位置づけられることを高取正男<(注97)>氏が指摘している。

 (注97)1926~1981年。京大文(史学)卒、同大院にて民俗学を志す。「京都女子大学非常勤講師の後、・・・助教授、・・・教授。・・・国立民族学博物館客員教授も務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%96%E6%AD%A3%E7%94%B7

 山部<(後の桓武天皇)>は立太子後、・・・778<年>10月に病気平癒を感謝するために自ら伊勢神宮に赴いている。

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[山部親王=桓武天皇と伊勢神宮]

 「奈良、平安初頭時代に・・・祖母・母・娘の三代に<わたって>斎王<(注98)(さいおう)>を勤めた三人の内親王<がいます。>・・・

 (注98)「歴代天皇の即位ごとに選ばれ、天皇の御杖代(みつえしろ・名代)として伊勢につかわされた内親王または女王。選定は卜定(ぼくじょう)と呼ぶ占いによって決められた。
 古代・崇神天皇が設置し、中世・後醍醐天皇の時代に廃絶した。豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から、祥子内親王(しょうしないしんのう)までの72代にわたる。
 斎宮では潔斎(けっさい・身を清めること)の生活を送りながら神宮の月次祭(つきなみさい・6月と12月)、神嘗祭(かんなめさい・9月。現在は10月)に奉仕した。
 斎王は、天皇の譲位、崩御・・・、近親者の喪(も)などが生じたときに退下(たいげ・任を解かれて都へ帰ること)した。」
https://www.kogakkan-u.ac.jp/http/sanpaiken/1st/saio.html

 井上<女>王は・・・717年・・・首<(おびと)>皇子(後の聖武天皇)と夫人県犬養広刀自<(あがたのいぬかいのひろとじ)>の間に生れた第一内親王でした。
 ・・・721<年>8月・・・井上女王が斎に決定します。・・・
 727<年>9月・・・井上内親王が伊勢国へ向かいます。
 ・・・元正天皇が首皇太子に皇位を譲位します。が、斎は新たに任命させません。
 つまり、井上女王は元正天皇の斎ではなく、聖武天皇の斎と考えていいでしょう。・・・
 俗世では生れ年は不明ですが、斎時代に同母妹である不破内親王が<、そして、>・・・728年<には>・・・同母弟である安積親王が誕生します。・・・
 <ところが、>17歳で安積親王<は>死去してしまいます。
 訃報<を>聞いた井上内親王は親族の忌により平城京へ帰還します。・・・
 <井上内親王の>異母妹である女皇太子阿倍内親王<(後の孝謙/称徳天皇)>・・・の即位を願っていた聖武天皇にとってすでに元斎となった井上内親王は興味の対象外でした。
 そのせいか・・・<井上内親王は、>749年・・・に父・聖武天皇の譲位により阿倍内親王が即位するまで独身のまま京中で過ごしていました。・・・
 754年・・・正月<、>・・・聖武天皇は思いだしたかのように29歳で無位だった井上内親王を二品に叙位して志貴皇子の王子<で>49歳の白壁王<(後の光仁天皇)>に嫁ばせます。・・・
 白壁王には当時糟糠の妻というべき和新笠(後の高野新笠)がいました。・・・
 すでに彼女の生んだ能登女王(21歳)、山部王<(後の桓武天皇)>(17歳)、早良王(4歳)が誕生しています。・・・
 井上内親王は・・・754年<に>・・・37歳で酒人女王(後の内親王)を出産します。・・・
 この・・・酒人女王こそ父の在位中に二代続く斎王となる人物です。・・・
 さらに7年後の・・・761年・・・に45才で他戸王(後の皇太子)出産します。・・・
 772<年、>・・・光仁天皇63歳  井上皇后55歳 酒人<(さかひと)>内親王18歳 他戸皇太子11歳<の時、>・・・<井上皇后>が<光仁天皇>を亡きものにしようと呪詛したという<事件が「露見」しま>す。・・・
 <その結果、>井上内親王<は>皇后の地位をはく奪<され、更に、>・・・他戸皇太子の地位はく奪<もなされ、翌年、山部親王が皇太子に立てられることになります。>・・・
 <その後、同じ772年の>11月<に、>・・・すでに18歳<と成人>になっていた酒人内親王が・・・斎王にト占され、すぐに春日斎宮に移され伊勢国へ向かう準備に入ります。・・・
 [<更に、>翌・・・773年・・・10月14日、天皇の同母姉・難波内親王が薨去すると、10月19日、難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、井上内親王と連座した他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の没官の邸に幽閉され<ます>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]
 774<年>五月・・・酒人内親王は伊勢国へ赴きます。・・・
 [775年5月30日・・・、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死<するのですが、>この同じ日に二人が亡くなるという不自然な死には暗殺説<が>根強い<ところです>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]
 二人の死で斎王であった酒人内親王がその任をとかれ伊勢から帰京しますが、その時期はあきらかにされていません。・・・
 <その後の、>天変地異と藤原氏主要メンバーの死亡・・・<そして、>光仁天皇、山部皇太子<の病気、>・・・に朝廷は騒然とし大赦や御祓い、奉納、読経ありとあらゆる手を使い井上内親王の怨霊を鎮めようとします。・・・
 778<年>10月・・・皇太子の病気が少し持ち直し・・・、病気祈願をする為に伊勢神宮を訪れたといいます。・・・
 <恐らく、その後のことでしょうが、>酒人内親王<が>・・・すでに・・・王子<を持っていたところの、>・・・山部皇太子<に嫁ぎます。>・・・
 779<年、この二人の間に>・・・第一皇女朝原内親王<・・>後の平城天皇妃<・・が>生<まれます。>・・・
 <桓武天皇の即位、光仁上皇の死去の後の、>782<年>8月<、>」
http://kyosoushi.blog72.fc2.com/blog-entry-132.html?sp
「朝原内親王<は、>・・・4歳で<、祖母、母、の後の、三代目の>斎王に卜定<され>、785年・・・4月23日に造斎宮長官が、7月21日に斎宮寮頭・賀茂人麻呂が任命され、8月24日に旧都の平城京で発遣の儀式を執行、9月7日、賀茂人麻呂や斎宮内侍従五位下・藤原栄子、その他乳母・女官たちに付き添われて伊勢へ下向、9月15日に斎宮に到着し<ます>。なお、内親王のこの下向は、発遣の儀に桓武天皇が長岡京から平城京へ行幸したり、大和国国境まで天皇と百官が見送るという異例のもので<し>た。
 ・・・796年・・・2月15日、斎宮で斎王解任のための奉幣使が立てられ、3月15日には平安京から内親王の帰京を求める奉迎使左少弁兼左兵衛佐・橘入居が差遣され、これにより身内の不幸がなかったにもかかわらず18歳で退下、帰京してい<ます>。帰京後の7月9日、桓武天皇の皇女たちの中では最初に三品に叙せられ・・・12月14日には桓武天皇が京中巡幸の途中、内親王邸を訪ねて、従五位以上の人々に物を賜<り、>この後、異母兄の安殿親王(後の平城天皇)に嫁いでいる。
 ・・・798年・・・9月19日、越後国の田地250町を与えられ<ています>。・・・
 <以下、付け足しです。>
 <朝原内親王は、>806年・・・3月17日に桓武天皇が崩御、5月に平城天皇が即位すると、それにともない妃となる。その後、平城天皇が・・・809年・・・4月に弟・嵯峨天皇に譲位、翌・・・810年・・・にはいわゆる「薬子の変」が起きたが、内親王は平城上皇とは行動をともにせず、・・・812年・・・の5月、異母姉妹の大宅内親王と揃って妃の位を辞している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%8E%9F%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 「酒人内親王<は、>・・・朝原内親王が・・・817年・・・に薨去すると、母として一人娘の死去をたいへんに悲しんだようで、晩年の・・・823年・・・1月20日、空海に代作させた遺言状にもその悲しみを表している。・・・
 829年<の>・・・彼女の死によって聖武天皇の系統に繋がる皇族は完全にいなくなった。実に8代の天皇の治世にわたるその生涯は、政争に翻弄された波乱のものであったといえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%BA%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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 皇太子の伊勢参宮は、この例と桓武即位後・・・792<年>10月の安殿(あて)親王(平城天皇)の例しかないということは単純な参宮ではない。
 中国の皇太子が立太子の際に、高祖の廟を拝謁して天命を受け継ぐ「謁廟の礼」にならったものであり、天子の行なう「郊祀の礼」に対応している可能性が指摘されている。」(180~181)

⇒山部親王(桓武天皇)の伊勢神宮参宮についての御大層な高取説、そしてその説に即した大津説、は、すぐ上の囲み記事に出てくる事実関係に照らせば、ナンセンスに近い、と言わざるをえません。
 この参宮は、斎宮経験者で皇后であった井上内親王、と、彼女との間にできた他戸皇太子、を、自ら殺したと言ってよい光仁天皇が、自分を含め、日本がこの二人の怨霊に悩まされていると考えたことから、別腹の新皇太子たる(やはり、この怨霊を恐れてノイローゼ気味の?)山部親王を、怨霊払い目的で伊勢神宮に参拝させたとしか考えようがないからです。
 また、安殿親王(平城天皇)の参宮については、当時桓武天皇となっていたかつての山部親王が、これまた、やはり、怨霊払い目的で、その退下後、安殿親王に嫁がせようとしていたところの、当時斎主であった朝原内親王、と、安殿親王とを、いわば、「恋愛」ならぬ「お見合い」をさせる目的のものであった、と考えるのが自然でしょう。
 (そもそも当時は貴族の間でも通い婚・・「恋愛」が先行する結婚!・・が基本であったこと、かつまた、安殿親王は、4歳の時の朝原内親王までしか面識がなかったはずであることに注意。)(太田)

(続く)