太田述正コラム#11590(2020.10.12)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その2)>(2021.1.4公開)

 「また、美川圭<(注3)>氏によれば、摂関政治期、後三条・白河親政期、堀河天皇在位中の白河院政前期には、政務は、内裏の近衛陣座(このえのじんざ)(内裏警固の武官の詰所に設けられた公卿の座)で開かれる「陣定(じんのさだめ)」(杖議(じょうぎ)ともいう)、清涼殿(天皇が日常住んだ御殿)の昼御座(ひるのおまし)前で天皇臨席のもと開かれる「御前定(ごぜんのさだめ)」、清涼殿の殿上間(てんじょうのま)で開かれる「殿上定(てんじょうのさだめ)」といった公卿会議(公卿は三位(さんみ)以上の高い位階を有する者、四位の参議も含む)で審議されたが、白河院院政期では、重要案件の審議の場が院御所(いんのごしょ)に移り、院御前における会議が「最高審議機関」になったという。

 (注3)1957年~。京大文卒、同大院博士後期課程指導認定退学、冷泉家時雨文庫調査員、摂南大助教授、「院政の研究」で京大博士(文学)、摂南大教授、立命館大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E5%9C%AD

⇒「院御前における会議」に名前がついていなそうなこと、と、そのメンバーに太政官の参議以上で入っていた者がいたのか、いたとして、そのメンバーは会議の議題によって変わったのか変わらなかったのか、が、気になります。(太田)

 こうした院を支えるのが院近臣(いんのきんしん)である。
 醍醐源氏の源俊明<(注4)>(としあき)のような側近公卿や当代随一の碩学大江匡房<(注5)(コラム#9133、11205、11271、11414、11557)>(おおえのまさふさ)もいたが、多くは非公式ながら白河が人事に介入して登用した人々であった。

 (注4)1044~1114年。「醍醐源氏高明流・・・1107年)、5歳の鳥羽天皇が即位した際、天皇の外伯父・藤原公実が自ら摂政就任を主張し、公実と従兄弟にあたる白河院は悩んだ。だが、俊明は頼通・師実が摂関として廟堂に尽くすところ大きく、その嫡流である忠実を抑えて、公季以後、5代傍流であり続けた公実を摂関に就かせるのは不当であると言い切り、白河院を思い直らせたという。以後、天皇との外戚関係の有無にかかわらず御堂流の正嫡が摂関を継承する制度が確立した。これにより摂関家嫡流が危機から救われた一方、外戚と摂関の分離が常態となることで摂関政治の再興は難しくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%8A%E6%98%8E
 (注5)1041~1111年。「大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄<だった。・・・後三条、白河、堀河天皇の皇太子時代の東宮学士。・・・大宰権、権中納言、大蔵卿等を歴任。>・・・兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E6%88%BF

 彼らは生産力の高い大国(たいごく)の受領を歴任し、その財力で官職を買う成功<(コラム#11247、11375)>(じょうごう)を繰り返して院の経済力の一翼を担った。
 末茂流藤原氏(藤原北家の傍流)で、白河の乳母子(めのとご)(乳母の実子)であった藤原顕季<(注6)>(あきすえ)もその一人である。

 (注6)1055~1123年。「母が白河天皇の乳母であったため、乳兄弟として白河天皇の信任が厚く、若い頃より・・・上国の国司を歴任。・・・その後も大国である播磨守や大宰大弐に任官する等により財力を蓄え、その邸宅六条殿は白河院の院庁となるほど豪勢なものであった。また、家格を上げるために、白河上皇の生母藤原茂子の兄である藤原実季の養子にもなった。
 院の近臣として権勢を誇り、・・・1104年・・・には従三位に昇進、<魚名の子の>末茂の子孫としては<久方ぶり>の公卿となった。しかしながら、議政官への昇進は叶わず、極官は正三位・修理大夫であった。なお、顕季が白河法皇に対して参議への任官希望を伝えたものの、漢詩を作れない事を理由に沙汰止みになったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E5%AD%A31055~1123年。

⇒成功(じょうごう)には二種類あるところ、坂井はその一方であるとしているけれど、その根拠を示していません。
 私は、買官の方ではなく、天皇/院の側が、「生産力の高い大国の受領を歴任」させたのだと想像しています。
 もとより、その結果形成された財力の相当部分を、天皇/院が吸い上げたのでしょうが、天皇/院が、近臣を、藤原北家本流以外から確保しようとした、ということではないでしょうか。
 そうしないと、摂関制との違いが、第三者の目にははっきり見えませんからね。。(太田)

 顕季の子長実<(注7)>(ながざね)・家保<(注8)>(いえやす)、家保の子家成<(注9)>(いえなり)も院近臣となり、院の力を背景に権勢を誇った。

 (注7)1075~1133年。「父・顕季同様、白河法皇に近侍する院近臣として立身。法皇の晩年における最も身近な側近であった。・・・諸国の受領や大宰大弐などを経て、・・・1130年・・・に権中納言に至る。また、死後、娘・得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を得て近衛天皇の母となったため、正一位左大臣を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%AE%9F
 (注8)1080~1136年。「各国の受領を歴任し、・・・1134年・・・従三位参議に至る。白河院政期において比類なき信任を受け、白河院司受領、院庁別当を歴任。家保の一家は、兄である長実の系統を凌いで善勝寺流の嫡流の地位を占めるに至った。 だが、白河法皇が没して鳥羽院政期に入ると家保と嫡男の顕保は失脚状態になり、代わりに早くから鳥羽上皇に仕えていた三男の家成が台頭する。家<成>は鳥羽上皇の支持を背景に父の持っていた利権を独占して鳥羽院政の中心を担う存在となった。その子孫は羽林家の四条家として現代に至るまで続いたのに対し、顕保は公卿になれないまま播磨守在任中に没し、他の男子も崇徳上皇の側近となって家成に対抗しようとするものの、保元の乱によって没落した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E4%BF%9D
 (注9)1107~1154年。「中央においては、従妹にあたる美福門院とともに国政の中枢部に深く関わり、また諸国においては数多くの荘園を形成して、経済的にも目ざましい躍進を遂げた。・・・
 藤原忠実は家成と協調的な態度を取っていたが、子の頼長は家成を「天下無双の幸人なり」と評して、その勢威に警戒感を示し<続け>た。・・・
 平忠盛・清盛父子との親交が深く、若年期の清盛は家成の邸宅に頻繁に出入りしていたと伝えられる。清盛の長男・重盛が正室に家成の娘を迎えたのを筆頭に、両家の間には何重にも姻戚関係が結ばれるに至っている。忠盛の正室(清盛の継母)池禅尼は従姉にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90

 一方、数は少ないが、有能な実務官僚として活躍した院近臣もいた。
 藤原為房<(注10)>・顕隆<(注11)>父子や顕隆の子の顕頼<(注12)>などである。

 (注10)1049~1115年。「1071年・・・六位蔵人となって後三条天皇に近侍して以来,白河・堀河両朝の五位蔵人,鳥羽朝の蔵人頭兼内蔵頭として4朝にわたり天皇の側近に仕え,その間,権左少弁,左少弁を兼ね,また遠江,加賀,尾張の国守を歴任し,1111年・・・ついに参議に昇り,ついで大蔵卿を兼ねた。一方,後三条院の判官代,白河院の別当に補されるとともに,師実,師通2代の家司として摂関家の家政を執った。・・・
 勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏繁栄の基礎を築き、同流長者も為房の系統が独占することになる。子孫は吉田・甘露寺・清閑寺(せいかんじ)・坊城などの家に分かれた。・・・
 博学で大江匡房,藤原伊房(これふさ)とともに「前(さき)の三房(さんぼう)」と称される。・・・
 <ちなみに、>伊房は名筆として有名な藤原行成の孫で書家として高名なだけでなく,後三条天皇,白河天皇に仕えて実務家としても腕を振るった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E6%88%BF-124658
 (注11)1072~1129年。「為房の次男。葉室家の祖。1087年・・・院蔵人に補されて以来,院司として長く白河上皇に仕えたが,また堀河,鳥羽2代の乳母として勢威のあった従二位光子の甥に当たり,かつ妻の典侍悦子も鳥羽天皇の乳母となったため,鳥羽天皇には誕生以来近侍した。天皇の御服以下身辺の用度をつかさどる内蔵頭を10年近くも務めたのも,こうした縁故によるものであろう。・・・
 1107・・・年弁・蔵人・衛門佐を兼ねる三事兼帯となる。・・・1122・・・年参議,権中納言。<1120>年に白河法皇が関白藤原忠実の内覧を停止したのち,顕隆の権勢は「天下の政,この人の一言に在り」(『中右記』)とされ,「夜の関白」(『今鏡』)と称されるほどであった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%9A%86-1105726
 (注12)1094~1148年。「顕隆の長男。母は鳥羽天皇の乳母典侍悦子。1107年・・・鳥羽天皇の践祚後まもなく蔵人に補されて以来,天皇に近侍し,左衛門権佐,右中弁,蔵人頭などを歴任し,31年・・・参議に昇り,さらに権中納言に進んだが,41年・・・これを辞し,民部卿に任ぜられた。しかしその後も重要な政務に参議し,諮問にあずかったので〈君の腹心〉と称され,内外の権を執って勢威をふるったと評された。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%A0%BC-1105736

 なかでも顕隆は、昼に関白以下の公卿が出した結論を、夜になって院御所に参上して覆したこともあり、「夜の関白」との異名をとった。」(9~10)
 
(続く)