太田述正コラム#11600(2020.10.17)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その7)>(2021.1.9公開)

 「しかし、清盛が帰洛すると、信西排除で協力していたクーデター側の足並みが乱れ始める。
 12月26日丑の刻(午前2時頃)、親政派の・・・手引きで二条が清盛の六波羅邸に、後白河も仁和寺に逃れた。
 賊軍となった信頼は六条河原で斬首、東国で再起を図ろうとした義朝も、尾張国内海荘で源家累代の家人(貴族の家や武士の棟梁に隷属する侍)である長田忠致<(注19)>(おさだただむね)に裏切られて殺された。

 (注19)?~1190年?「長田氏は桓武平氏良兼流で、・・・忠致は道長四天王の1人とされた平致頼の5世孫にあたる。尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていたという。・・・1159年・・・、平治の乱に敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せる。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出した。この際、政清も同時に殺害された・・・
 義朝を討った功により忠致は壱岐守に任ぜられる・・・
 後に源頼朝が兵を挙げるとその列に加わる。・・・頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り懸命に働いたという。しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると・・・頼朝の命によって処刑されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E5%BF%A0%E8%87%B4
 鎌田政清(1123~1160年)は、「藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国<出身。>・・・源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母だったため乳兄弟として最も信頼された。・・・
 平治の乱では、内裏占拠後の藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられる。待賢門の戦いでは義朝の長男・義平と共に平清盛の長男・重盛と戦い活躍する。六条河原の戦いで源氏が敗れ、義朝が討死しようとするのを引き止めて、義朝の子や大叔父の源義隆、従兄弟の源重成と共に東国を目指して落ちた。
 途中、近江国の落武者への捜索の苦難に遭いながら、義朝主従は政清の舅である尾張国野間内海荘の領主・長田忠致の館にたどり着く。だが忠致の裏切りにあい、義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子・景致の手にかかって殺された・・・。・・・
 政清に男子がなかったため、頼朝は<彼>の娘に尾張国篠木庄(春日井市の北東部から小牧市の東部)、丹波国名部庄の地頭職を与えている・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%B8%85

 一方、捕縛された頼朝は、清盛の継母池禅尼の懇請により命を救われた。
 『平治物語』は、早くに亡くした子の家盛と頼朝が似ていたため、池禅尼が助命に動いたとする。
 ただ、話はそれほど単純ではない。
 実は、頼朝の母の実家熱田大宮司家は、侍賢門院璋子やその子の後白河・上西門院<(じょうさいもんいん)(注20)>とのつながりが強かった。

 (注20)統子(とうし)内親王(1126~1189年)。「鳥羽天皇第2皇女、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇・・・らがいる。・・・
 後白河天皇<は>わずか1歳年上に過ぎない同母姉・統子を准母とした<が、>背景として・・・保元の乱による同母兄崇徳上皇の排除によって崩壊した待賢門院璋子所生子の間の関係を待賢門院(故人)-統子内親王-後白河天皇のラインとして再構築することを意図していたとされている。・・・
 ・・・後白河天皇とは親しい仲で行動を共にすることも多く、<統子>の死に際して後白河院は深く悲しんだと伝えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 頼朝自身も前年には上西門院蔵人になっていた。
 母の実家が後白河・上西門院を通じて、侍賢門院に仕えてきた池禅尼に対し、頼朝の助命を清盛に嘆願するよう働きかけた可能性が高い。
 ともあれ頼朝は一命を救われ、・・・1160<年>3月、伊豆国の伊東に配流された。」(21)

⇒池禅尼は「待賢門院近臣家の出身だった」し、「熱田大宮司家<も>・・・<この>待賢門院<の>近臣家」だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC
ことは確かですが、坂井が拠っているこの説のほか、「頼朝が仕えていた上西門院・・・の働きかけによるものと推測」する説もあります(上掲)が、私は、どちらの説も間違いだと思っており、私の新説を、次の東京オフ会「講演」原稿で明らかにするつもりです。
 そもそも、「頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清(注21)に捕えられた」(上掲)ことは、私は偶然だとは考えておらず、池禅尼は、最初から頼朝を自らの意思で保護するつもりだった、と見ているところです。

 (注21)?~?年。「伊勢平氏の傍流<。>・・・1184年・・・6月、頼朝は宗清を恩人として頼盛と共に鎌倉へ招いたが、これを武士の恥であるとして断り、平家一門のいる屋島へ向かった。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかった事で落胆している。子の家清は出家して都落ちには同行せず、・・・1184年・・・7月に本拠伊勢国で三日平氏の乱を起こすが、鎌倉方に討ち取られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E6%B8%85

 頼朝が、平頼盛のみならず、恐らくそうせよとの頼盛の命を受けていたからこそ頼朝を殺さずに捕えるだけにとどめたと思われる平宗清にまで、深い感謝の意を抱き続けたのはどうしてか、ということです。(太田)

(続く)