太田述正コラム#12700(2022.4.19)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その33)>(2022.7.12公開)

 「<1865年>8月4日の朝議<で>・・・慶喜は・・・戦争継続を勝ち得たものの、前線の旗色は悪かった。・・・
 8月13日に慶喜は二条に解兵と停戦を申し入れた。
 16日には長州解兵と、諸侯を集めて今後の方針について議論することを天皇に申し上げた。
 中川宮によれば、慶喜の変節を聞いた天皇は極めて機嫌が悪かったという。
 御沙汰を出した天皇の面目丸つぶれであるから、機嫌が悪くなるのも当然である。
 朝議に「余程決心の筋」で臨んだ正親町三条は、慶喜の都合によって朝議が左右されたことに対し、「毎時慨嘆の至りなり」と不満を隠せなかった・・・。
 8月22日に停戦の御沙汰書が出され、9月2日に停戦協定が結ばれている。

⇒幕府に関して、幕府が軍事的攘夷ができず、の方は、ダメ天皇や並み公家達はともかく、大半の武士達は止む無しと思ってくれていたでしょうが、この大半の武士達から見て、軍事的攘夷を名分なしに決行した長州藩に苦笑しつつ、そんな長州藩を征討する軍事力すら幕府が動員できないことがはっきりしたことで、(将軍不在の)幕府の権威はこれ以上下がりようがないところまで下がってしまったと想像されるところ、さぞかし慶喜は大満足だったことでしょう。
 もっとも、孝明天皇の権威もまた失墜したわけであり、天皇の取り換え時至れり、と、近衛忠煕らが考えたのではないか、とも、私は想像しているわけです(太田)

 こうした流れに、洛北で暮らす岩倉具視も不服であった。
 ・・・8月2日付の千種有文<(注52)>宛ての書翰で正親町三条や大原重徳と協力し、天皇に諫言する列参運動を起こすよう促した。・・・

 (注52)1815~1869年。「和宮(かずのみや)降嫁問題で久我建通(こが-たけみち),岩倉具視らとともに尊攘派から排斥され,<1862>年辞官,落飾。王政復古で還俗,宮内大丞などをつとめた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%83%E7%A8%AE%E6%9C%89%E6%96%87-18931
 「その子有任は維新前後に活躍し、その娘任子は明治天皇に仕えて二皇女を生んだ。・・・
 <ちなみに、>千種家<は、>・・・村上源氏久我流岩倉家庶流。堂上源氏十家の一つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%A8%AE%E5%AE%B6

 <更に、>岩倉は・・・、8月7日付の薩摩藩士井上石見<(注53)(いわみ)宛ての書翰では、正親町三条と大原を説得し、次に内大臣近衛忠房の門流<(注54)>である西洞院信堅<(注55)>(にしのとういんのぶかた)、阿野公誠<(注56)>、高倉永祜<(注57)>(ながさち)などを仲間に入れ、列参が実現するよう働きかけることを頼んだ。」(192~)

 (注53)井上長秋(1831~1868年)。「通称は石見<。>・・・鹿児島郡坂本福ヶ迫の諏訪神社(現.長田神社)神職の家に生まれる。・・・幕末動乱期において、兄と共に岩倉具視ら倒幕派の公家と藩との連絡役を務める。
 ・・・1868年・・・、西郷隆盛、大久保利通らと共に参与に任ぜられ、箱館府判事を命ぜられる。明治元年(1868年)9月、択捉島視察の帰途に遭難、行方不明となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%95%B7%E7%A7%8B
 (注54)近衛家の門流は、五摂関家のうちダントツの48家。日野・山科・広橋・滋野井・平松・荻原・吉田・石井・八条・長谷・交野・錦小路・慈光寺・舟橋・桜井・水無瀬・山井・七条・柳原・錦織・町尻・阿野・西洞院難波・竹屋・櫛笥・四辻・万里小路・外山・園池・高倉・日野西・豊岡・北小路・富小路・三室戸・西大路・裏松・勘解由小路・持明院・石野・土御門・高野・正親町三条・芝山・裏辻・竹内・小倉」
http://sito.ehoh.net/kugemonryu.html
 (注55)「西洞院家(にしのとういんけ)は、高棟王流・桓武平氏の流れをくむ公家。高棟王から17世の孫にあたる南北朝時代の正三位参議・西洞院行時(1324年 – 1369年)を祖とする堂上家。家格は半家。桓武平氏の総本家にあたる。・・・
 大納言となった西洞院時成(1645–1724年)及び権中納言となった西洞院信堅(1804–1891年)を除き、歴代当主の極位極官は従二位参議だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%AE%B6
 (注56)きんみ(1818~1879年)。「1858年・・・廷臣八十八卿列参事件に加わった。<1862>年8月16日・・・には三条実美など公卿13名の一人として連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出した。同年11月4日・・・参議に任じられ、議奏、国事御用掛を務める。<1863>年12月・・・勅使として一橋慶喜へ遣わされ攘夷期限の決定を督促する朝旨を伝達した。<1868>年閏4月21日・・・権中納言に任じられた。
 <1868>年5月18日・・・弁事として出仕。以後、参与、上局副議長、待詔院下局長官、集議院次官、留守次官兼京都府権知事、禄制取調御用掛、宮内少輔兼留守次官、宮内大丞などを歴任し、1873年5月17日に免本官となり退官。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%85%AC%E8%AA%A0
 「阿野家(あのけ)は、藤原北家閑院流滋野井家の庶流にあたる公家・華族である。公家としての家格は羽林家・旧家・外様。・・・近衛家の家礼。・・・
 、藤原成親の四男で滋野井実国の猶子である公佐を家祖とする。阿野全成の娘が阿野荘の一部を相続して公佐に嫁した後、公佐と全成娘の子孫が代々これをそのまま相続し、やがて「阿野」が一流の家名となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%AE%B6
 (注57)ながさち(1839~1868年)。「戊辰戦争の勃発に伴い、北陸道鎮撫総督に就任。若狭の酒井忠禄の兵を先鋒として越前 加賀 越中 越後へと軍をすすめた。山形有朋 黒田清隆を参謀としてもちいい鯨波戦争に勝利する。その後会津征討総督を兼務し、後に奥羽征討越後口総督となり奥羽列藩同盟の討伐へ向かった。越後高田で病没<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E6%B0%B8%E7%A5%9C
 「高倉家(たかくらけ)は、藤原北家藤原長良の子孫にあたる従二位参議高倉永季を祖とする公家・華族である。公家としての家格は半家<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E5%AE%B6

⇒岩倉家は一条家の門流・・ちなみに、千種家も同じ・・であり、
http://sito.ehoh.net/kugemonryu.html
にもかかわらず、近衛家の門流の三家に呼びかけたのは、私がかねてから申し上げてきているところの、岩倉具視・近衛忠煕の走り使い説、を裏付けるものです。(太田)

(続く)