太田述正コラム#12764(2022.5.21)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その9)>(2022.8.13公開)

「・・・寺内正毅内閣は山県有朋の意向に従って「黄色人種連合」を目指し、抗争を繰り返す群雄の中から北洋軍閥安徽派の領袖段祺瑞を選び、・・・<彼>に、華南の孫文と戦って勝ち中国統一を成し遂げるための軍費として1億4500万円の巨額の円借款を日本興業銀行等を通じて供与した。
 これを「西原借款」<(コラム#4502、4528、4967、4968、8033、8115、8535)>という。
 大正6年度一般会計予算が7憶3500万円であるから、その約2割に相当する巨額である。
 しかし段祺瑞は支那を統一することは出来ず、「西原借款」は焦げ付いたまま償還されなかった。・・・
 山県有朋は寺内正毅のやり方が拙劣だからと考え、「寺内内閣が、北方政権の段祺瑞のみに『西原借款』を供与して支援したのが失敗の原因である。
 わが国は、南方政権の孫文の中国国民党をも支援して、あい争う段祺瑞と孫文の双方に恩を売って妥協させ、支那統一を図り、両者の上に立って、『日本としなの黄色人種連合』を成就させるべき」との実現不可能な誇大妄想思想を唱えて、寺内内閣を批判した。・・・
 桂太郎(長州)や寺内正毅<(注8)>(長州)や田中義一(長州)や三浦悟楼<(注9)>(長州)らが「山県は耄碌している」との共通認識を持ち、山県の老害に辟易し・・・た・・・。」(58)

 (注8)1852~1919年。「長州藩士・・・の三男として生まれる。・・・1864年に奇兵隊<、>・・・御楯隊<に所属>し、三田尻で西洋銃の操作や国学を学んだ。1867年に倒幕軍として従軍し、戊辰戦争、箱館戦争と転戦した。凱旋後、京都でフランス流の軍学を学び、兵部省第一教導隊に編入された。明治3年(1870年)に奇兵隊脱隊騒動の鎮圧に従軍し、戦後は御親兵に所属し上京した。
 フランス留学を希望した寺内は1872年に陸軍を休職し語学を学んだが、その機会は訪れなかった。1873年に士官養成所陸軍戸山学校に入学し、翌年に卒業する。卒業後は新設された陸軍士官学校にスタッフとして所属した。明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、当初後備部隊の大隊長に任じられたが前線を志願し、最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。
 1878年に士官学校生徒大隊司令官心得という職務を経た後、明治15年(1882年)閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学する。翌年には駐在武官に任ぜられ、1886年までフランスに滞在した。帰国後は、陸軍大臣官房副長(1886年)、陸軍士官学校長(1887年)、第1師団参謀長(1891年)、参謀本部第一局長(1892年)とキャリアを重ねた。 明治17年(1894年)の日清戦争では兵站の最高責任者である大本営運輸通信長官を務めた。その後、歩兵第3旅団長(1896年)、教育総監(1898年)を経て、明治33年(1900年)より参謀本部次長に就き、義和団の乱では現地に赴いた。
 第1次桂内閣(1901年6月2日 – 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 – 1911年8月25日)でも再び陸相を務めた。 明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将に栄進した。明治40年(1907年)9月、戊辰・西南・日清・日露の各戦役の軍功によって子爵を授けられた。
 明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監・曾禰荒助が辞職すると明治43年(1910年)5月30日、陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の日韓併合と共に10月1日、朝鮮総督府が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。 なお、陸相兼任は第2次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。・・・
 <ちなみに、>韓国併合の祝宴で「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と得意満面に詠んだという・・・。・・・
 大正5年(1916年)6月24日、元帥府に列せられる。10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。・・・時は第一次世界大戦の最中であり、寺内は大正7年(1918年)8月2日にシベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日に総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85
 (注9)1847~1926年。「萩藩士の陪臣・・・の五男として生まれる。明倫館で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐や戊辰戦争に従軍する。維新後は兵部省に出仕、明治7年(1874年)には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年(1876年)、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山(鹿児島県)を陥落させた。明治11年(1878年)中将となり、西部監軍部長。
 長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成し、山縣や大山巌らと対立した。明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、上記3人と連名で議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出し、翌年陸軍士官学校長に左遷される。明治18年(1885年)に陸軍卿の大山と共に欧州の兵制を視察した。
 明治19年(1886年)に帰国、月曜会の中心人物として陸軍改革の意見書を提出したが、翌年に熊本鎮台司令長官に左遷される。明治21年(1888年)、予備役に編入。同年から明治25年(1892年)まで学習院院長。明治23年(1890年)7月10月に子爵による互選で貴族院議員に選出されたが、翌年9月30日に辞職した。
 明治28年(1895年)9月1日、在朝鮮国特命全権公使に就任し、・・・閔妃殺害を教唆し<た。>・・・
 明治43年(1910年)には枢密顧問官に就任、また宮中顧問官などの要職を歴任する。大正期には「藩閥打倒」を唱え、政界の黒幕としても活動<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC

⇒耳タコの山縣ハートは薩摩人、を、再度強調しておきますが、三浦のようなへそ曲がりのゴロツキが重用されたことからも、少なくとも長州閥はあったかも、という気にさせられますね。
 どうやら、山縣耄碌説を世に広めたのは三浦だった、と見てよさそうです。
 山縣は、まっとうなことしか言っていないようですからね。
 で、私見では、この山縣の対支戦略を実現すべく、杉山は、支援対象として毛沢東の中国共産党を選び、「黄色人種連合」の構築に成功し、その恩沢に、日本を含む全非欧米世界が浴しているわけです。(太田)

(続く)