太田述正コラム#12914(2022.8.4)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その53)>(2022.10.27公開)

 「・・・桂に扇動された<第二次西園寺内閣の>上原陸相は、11月30日の閣議で、二個師団増設<(注85)>に1913年度から着手することを強く要求し、内閣に拒否された。

 (注85)「1912年・・・当時、内閣は行財政整理と減税および継続中の海軍充実の財源に充てるために各省に対して予算の1割(10%)の削減を求めていたが、陸軍はこれを実質3%に抑えてその差分の7%を2個師団の増設予算に回すように求めた。世論の支持を受けた内閣と政財界に支持を広げた陸軍の対立が続いたが、明治天皇の崩御(7月30日)と大喪(9月13日)があり、結論は先送りされた。
 大喪が終わると、陸軍は内閣に対して2個師団の増設の理由を説明させて欲しいと求め、責任者である・・・軍務局長の田中義一・・・、続いて大臣である上原が説明を行ったが、閣議の納得を得られず、続いて山縣有朋と西園寺公望が会談を行った。当初は、陸軍側の要望も受け入れて欲しいと要請した山縣も、2度目の会談で増師が実現しないと重大な事態を招くと西園寺に迫り、会談は決裂に至った。山縣は二個師団増設問題を強引に推し進めることに危ないものを感じ、将来の増設への手がかりを残すことを内閣と約すことで、内閣と陸軍の妥協を図ろうとした。しかし、山縣が風邪で東京に戻るのが遅れているうちに、桂太郎に煽動された上原は11月22日の閣議において2個師団増加のために今後6年間に200万円ずつの財源をつけるように要求した。内閣はこれを拒否、世間でも増師反対大会が開かれるに至った。これを受けて、上原は12月2日に大正天皇に対して帷幄上奏をして自身の辞職の旨を伝えた。陸軍は後任を推薦せずに5日に西園寺内閣は総辞職した(軍部大臣現役武官制)。この総辞職の過程は政党(立憲政友会)を基盤とした内閣と藩閥・軍部・官僚の抗争という要素があったが、藩閥や軍部に対する人々の怒りを招き、陸軍の後押しを受けた第3次桂内閣は第一次護憲運動によって2か月で崩壊した(大正政変)。
 1914年に第一次世界大戦が勃発し、当時の第2次大隈内閣は2個師団増設の必要を認めて予算案を提出したが、かつての西園寺内閣の支持基盤で大正政変を主導した立憲政友会の反対で否決、衆議院は解散されて1915年3月25日に第12回衆議院議員総選挙が行われた。この選挙で大隈内閣を支持する党派が勝利を納め、同年6月になって2個師団増設の予算案が認められた。これを受けてこの年の12月に第19師団と第20師団が咸鏡北道の羅南と京城郊外の竜山にそれぞれ設置された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%80%8B%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E5%A2%97%E8%A8%AD%E5%95%8F%E9%A1%8C

 ・・・陸軍と西園寺内閣の対決は公然としたものとなり、・・・妥協を策してい<た>・・・山県といえども調停はほとんど不可能な状況だった。
 12月2日、上原は陸相の辞表を提出し、陸軍は後任の陸相を推薦しなかった。
 翌日、西園寺首相が辞意を告げに山県元帥を訪れると、山県は西園寺の考えを変えさせようと説得した。
 しかし西園寺は聞こうとしなかった(『大正初期山県有朋談話筆記・政変思出草』・・・)。

⇒原則省略している典拠をわざわざ付したのは、山縣が、西園寺と相談の上、そういう話だったということにした、と、私が見ているからです。(太田)

 西園寺が強硬であったのは、第二次内閣の首相をいやいや務めており、国民から批判の強い師団増設を拒否して首相を辞める好機会を、逃したくなかったからだった。

⇒ここは直接的な典拠が付されていませんが、仮に西園寺がそう言ったのだとすれば、それもウソでしょう。(太田)

 こうして12月5日、西園寺内閣は総辞職した・・・。

⇒2個師団問題は、山縣が西園寺と示し合わせた上で、世論が、軍拡計画、とりわけ陸軍の軍拡計画、にどのような反応を示すか、試した、というのが私の見方です。
 その結果、世論の反応がはかばかしくないので、ゴリ押しすると西園寺に傷がつくと判断し、西園寺が軍拡に慎重であるというイメージが国民の間に広まるように措置した上で、西園寺を桂で代えた、と。
 山縣は、つくづく、(軍拡機運醸成にもつながるところの)アジア主義(秀吉流日蓮主義)を国民に普及させようと尽力したところの、近衛篤麿の1904年における40歳での余りにも早い死
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
を残念に思ったことでしょう。
 なお、伊藤之雄には、「上原陸相は帷幄上奏権を利用して、単独で大正天皇に直接辞表を提出した。事態の急転に驚いた山縣元老は、桂内大臣を通じて、内閣と陸軍との和同を求める勅語の渙発を提案し、自ら勅語の草案を起草するが、この草案は<内大臣兼侍従長の>桂の手によって握りつぶされた(12月1日)。桂は侍従長の資格で西園寺首相と面会したが、この時、増師要求を受け入れるよう口頭で求めるにとどめた。更に、後任陸相について、桂は人選は難しいという軍内情勢を伝えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89
という、桂の策動に触れて欲しかったところです。(太田)

 世論は山県の真意と関わりなく、陸軍と「長州閥」(山県系官僚閥)と背後にいる元老山県元帥に対して怒った。・・・
 藩閥官僚批判の声が高まる中、山県や松方・井上・大山巌ら元老は、大正天皇に推薦する首相候補者をなかなか決められなかった。
 元老の松方、薩摩海軍の長老の山本権兵衛大将(前海相)らの名が出ては消えた。
 結局、桂がやる気を示したので、山県ら元老は桂を推薦せざるをえなかった。」(378~379)

⇒ここでも、伊東之雄には、「山縣閥の平田東助前内相なども政権運営の困難を理由に辞退、次いで桂が山縣子飼いの寺内朝鮮総督を推薦するが、寺内を温存したい山縣の意向で辞退する」(上掲)ということも触れて欲しかったところです。
 私は、山縣が、前述したような桂の姑息な策動を突き止めて怒り、平田や寺内に後継首相になることを辞退させて桂が首相を受けざるを得ないように仕向け、桂自身がより深刻化させてしまったところの難局の処理に、それが失敗に終わることを見越しつつ、桂に懲罰的にあたらせることにした、と見ています。(太田)

(続く)
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