太田述正コラム#12916(2022.8.5)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その54)>(2022.10.28公開)

 「・・・1913年2月上旬にかけて、護憲運動<(注86)>はさらに盛り上がっていった。

 (注86)憲政擁護運動。この場合は第一次護憲運動。「西園寺の後継内閣には、陸軍大将の桂太郎が特に詔勅を得て第3次桂内閣を組閣することとなった(このとき桂に対して海軍大臣の斎藤実は「海軍拡張費用が通らないなら留任しない」と主張し、桂は大正天皇の詔勅で斎藤留任にこぎつけている)。これを、山縣有朋の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発する勢力により、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする第一次護憲運動が起こされた。
 立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅らは、お互いに協力しあって憲政擁護会を結成する。
 大正2年(1913年)2月5日、議会で政友会と国民党が桂内閣の不信任案を提案する。その提案理由を、尾崎行雄は次のように答えた。
 彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか・・・
 桂は不信任案を避けるため、5日間の議会停止を命じた。ところが停会を知った国民は怒り、桂を擁護する議員に暴行するという事件までが発生する。桂は9日に詔勅を政友会の西園寺総裁に下させ、それを盾に不信任案の撤回を政友会に迫ったが、政友会内では動揺する原敬ら党幹部を一般代議士が突き上げる形で不信任案をもってのぞむことが確認された。これに対して桂は衆院解散をもって議会に臨もうとした。
 そうした中の2月10日、衆院解散に反対する過激な憲政擁護派らが上野公園や神田などで桂内閣をあからさまに批判する集会を開き、その集会での演説に興奮した群衆が国会議事堂に押し寄せるという事件を起こした。桂は衆議院議長の大岡育造から「解散すれば内乱が起きる」と説得されて総辞職を決意し、そのためにさらに3日間の議会の停会を命じた。
 しかし事情を知らぬ群衆は、停会に激怒して国民新聞社や交番などを襲った。さらにこの憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、関西などにおいても同様の襲撃事件が発生し、各地で桂内閣に反対する暴動が相次いだ。
 2月11日、桂内閣は総辞職した。後継内閣は海軍大将山本権兵衛が政友会を与党として組織した。民衆の多くは政友会と国民党連携による政党内閣を期待する声が多かったので、政友会が山本内閣に妥協したことは民衆を失望させた。このため尾崎らが政友会を離党し、新たに政友倶楽部を結党した。国民党も山本内閣と一線を画す立場をとった。これに対し山本内閣と政友会は文官任用令の改正、軍部大臣現役武官制改正(現役規定をなくす)、行財政整理の断行などを実施することで批判をかわし、第一次護憲運動は一応束していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%86%B2%E9%81%8B%E5%8B%95

 9日の第3回憲政擁護大会には、両国国技館<(注87)>に1万3000名以上の聴衆が集まった。
 10日には数万の群衆が議会<(注88)>を包囲した。

 (注87)「1833年・・・から回向院で相撲興行が催されていたことから、1909年(明治42年)に旧国技館は、同境内に建設された。明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興行が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は法隆寺金堂を真似た。約13,000人収容できた。・・・また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘という愛称で呼ばれていた。・・・
 設立委員会の委員長<は>伯爵板垣退助<で、>・・・1906年(明治39年)6月着工、3年後の1909年(明治42年)5月に竣工・・・
 設計は・・・辰野金吾<(コラム#2253)>とその教え子葛西萬司で、・・・枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、3,000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。実際の収容人数は20,000人以上ともされていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8
 (注88)「ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーおよび臨時建築局技師吉井茂則の設計による第一次仮議事堂は、第1回帝国議会召集前日の1890年(明治23年)11月24日に竣工し<たが、>・・・第1回帝国議会<の>・・・会期中の翌1891年(明治24年)1月20日未明に漏電により出火、仮議事堂は全焼した。・・・吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェの設計による第二次仮議事堂が4月28日に着工。昼夜兼行の作業で第一次仮議事堂の跡地に再建され、同年10月30日に竣工した(第2回帝国議会は11月21日召集)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82

 桂首相は内乱を恐れ、2月11日に内閣総辞職した。
 組閣以来、わずか53日だった。・・・
 こうして、2月20日に第一次山本権兵衛内閣が、政友会を与党として成立した。」(380~381)

⇒仮が付かない議事堂が着工から実に17年を経た1936年(昭和11年)11月7日に(その間の建設中の議事堂全焼に伴う第三次仮議事堂設置を経て)竣工するのが廣田弘毅内閣の時(上掲)ですが、その内閣が、同年に、山縣有朋悲願の軍部大臣現役武官制を23年ぶりに復活させることに成功する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
わけです。
 本題をはずれますが、1891年建設の第二次仮議事堂の設計はドイツ人だったのに、1906~1909年建設の国技館の設計は日本人だったことから、世紀の変わり目にと言うか、日清日露両戦争を挟んでと言うか、に、日本が、公共建築物の設計においても「国産化」に成功していたことが分かります。(太田)

(続く)