太田述正コラム#12964(2022.8.29)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その15)>(2022.11.22公開)

 「・・・のちに東條英機内閣で書記官長(現官房長官)を務める星野直樹<(注31)(満州国>総務長官)は昭和15(1940)年1月、原田熊雄に対して次のように話している。

 (注31)1892~1978年。一高、東大法。大蔵省入省。「1932年に満州国へ転身した後は、満州国財政部理事官、財政部総務司長、財政部次長、国務院総務庁長を経て、1937年国務院総務長官に就任。日本の傀儡国家である満州国において、実質上の行政トップの地位に就いた。在任中は、満州国を動かす弐キ参スケの一人として、同国の財政経済を統轄した。満州国において計画経済の「実験」を成功させた星野は、1940年1月の大阪毎日新聞に掲載された寄稿文の中で「満州の面積は独・仏・伊の三国を併せたものに匹敵し、これに支那を加えることで日本の資源・食糧面でのアウタルキー(自給自足圏)は完成する」と記し、国民から賞賛を浴びる事となる。
 帰国後は、第2次近衛内閣の元で企画院総裁に就任し、資本と経営の分離など社会主義的な経済新体制要綱原案を作成するも、自主統制を主張する財界との間に激しい摩擦を生じ、1941年に辞職。同年4月4日、貴族院議員に勅選されたが、同年東條内閣の成立とともに内閣書記官長に起用され、以後東條英機の退陣まで側近として大きな発言力を保持した。その間、総力戦研究所長事務取扱、同参与、国家総動員審議会委員、企画院参与等も務めた。辞任後は大蔵省顧問。・・・
 星野の抜群の記憶力は「ノートを持たねば話せぬ」という東條英機にとって、心強い助っ人だったという。・・・
 先祖は群馬県沼田市に代々続く豪農だった。1868年に、祖父の星野宗七が横浜に出て生糸業者を営む「星野屋」を開業。父、星野光多はキリスト教伝道者。・・・叔母の星野あい(光多の妹)は、初代「津田塾大学」学長<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E7%9B%B4%E6%A8%B9

 ・・・満州の現状については、やはり梅津が一番しっかりしていて、将来陸軍を建て直すには、梅津の力を借りなければならない時期が必ず来る、というように考えておった。
 そうして1年なり2年なり後には梅津が中央に帰って、梅津によって陸軍の整頓をすることが必要だから、その前に梅津に疵をつけたくない、というように彼は話しておった。・・・

⇒星野が、1940年初頭に、「陸軍を建て直す」とか「陸軍の整頓をする」必要性をどうして感じていたのかを岩井は追究しようとしていませんが、かく言う私にもにわかには思い浮かびません。(太田)

 梅津が関東軍司令官になるのとほぼ同時に、首相の座は平沼騏一郎から予備役陸軍大将の阿部信行<(注32)>に移った。

 (注32)1875~1953年。東京府尋常中学校(後の一中)、四高中退、陸士(9期)、陸大(19期・恩賜)。「陸軍少将として参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長の要職を務め、陸軍中将として陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官を歴任して陸軍大将に親任され、軍事参議官に転じた後の1936年(昭和11年)3月、二・二六事件後の粛軍によりほとんどの陸軍大将が予備役に編入された際に阿部も予備役となる。1939年(昭和14年)6月には東亜同文会理事長に就任している。
 1939年(昭和14年)8月30日に内閣総理大臣に就任した。当初は外務大臣を兼任。同郷者が多い阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれ、また、畑俊六、伍堂卓雄、塩野季彦派の宮城長五郎の入閣等から当時の読売新聞紙上では「一中内閣」と持て囃された。阿部内閣発足の2日後、9月1日には第二次世界大戦が勃発した。阿部は、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げた。陸軍の反対もあり、翌1940年(昭和15年)1月15日に内閣総理大臣を辞した。
 その後、1942年(昭和17年)4月30日に実施された翼賛選挙を前に結成された翼賛政治体制協議会の会長に就任。5月20日に結成された翼賛政治会でも引き続き会長を務めた。12月には東亜同文会副会長に就任する。 1942年(昭和17年)5月から1946年(昭和21年)2月まで貴族院議員を務めた。
 1944年(昭和19年)7月に朝鮮総督に任じられ、敗戦を迎える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C
 「宇垣閥に属し、浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣では宇垣一成陸相の・・・病気のため・・・代理を務めたが、宇垣退役後は中間的立場をとった。・・・二・二六事件では軍事参議官として決起将校寄りの態度をみせた。・・・
 首相となったが,おりからのインフレーションの悪化,貿易省設置案の失敗,官吏身分保障制撤廃案の失敗,日米通商航海条約継続交渉の失敗により,特にみるべきものがないまま,4ヵ月半で退陣した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C-26975

⇒阿部は、私は、杉山元の雇われメンターだったと見ており・・コラム#10435でそのことを示唆したことがある・・、そういう目で「注32」を読めば、阿部の言動の説明がつくことを請け合いです。(太田)

 その阿部内閣も5ヵ月足らずで崩壊した。
 続く海軍大将米内光政も最終的に陸軍の反発を買って半年あまりで総辞職するという、非常に不安定な政治状況が続いた。
 そして再び、人々の期待を担う形で近衛文麿が登場する。
 昭和15(1940)年7月22日、第二次近衛内閣の成立である。」(112~113、116)

(続く)