太田述正コラム#13112(2022.11.11)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その20)>(2023.2.6公開)

 「<1940年>9月12日朝、四相会談が開催された。
 及川海相<だけが>留保的態度を示した・・・ため結論を得ることが出来ず、・・・同夜、松岡外相と豊田貞次郎海軍次官、岡敬純軍令部第三部長が会談し・・・最終的に同意した。
 翌13日、海相官邸において、省部首脳(伏見宮軍令部総長を除く担当部局長、すなわち及川海相、豊田次官、阿部軍務局長、近藤<(注31)>軍令部次長、宇垣第一部長)による会議が開催され、海軍側の同意を最終的に確認した。・・・

 (注31)近藤信竹(のぶたけ。1886~1953年)。海兵35期(首席)、海第17期。「1939年(昭和14年)10月21日、軍令部次長に就任。1940年9月、日独伊三国同盟を締結する価値について審議された際、近藤からは対米開戦準備は1941年4月に完成すること、短期戦なら勝機があるが、長期戦だと困難であること、米国の建艦が進捗して日米海軍の比率がますます大きくなり日本は追いつけなくなり、戦争が回避できない場合は今が一番有利であることが述べられた。部員だった中島親孝によれば、近藤は親独派として知られ、伏見軍令部総長宮のもとでは、部内で日独伊三国同盟締結を説き、軍令部次長から転出するまで日米関係を担当し、ここでも、その後の日独関係の影響から日米関係について部内で強く発言し、部内では戦争をやるのはやむを得ないと語っており、会議後に永野軍令部総長が「近藤くんも随分強いことを言っていたな」という意味深長なやり取りをしていた場面を聞いたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E4%BF%A1%E7%AB%B9

 反対者は宇垣纏<(注32)>第一部長ただ一人だけだった。

 (注32)1890~1945年。海兵40期(9番)、海大22期。「1938年(昭和13年)11月15日、海軍少将に進級すると同時に、軍令部出仕となり、12月15日、軍令部第一部長に補される。宇垣は作戦課長・中澤佑大佐と共に、日独伊三国同盟締結は米国を挑発し、日米戦争の危機を招き最悪の事態に陥ると、一貫して反対の立場をとった。・・・
 1940年(昭和15年)夏以降、親独ムードの盛り上がりから、海軍がこれ以上反対することはもはや国内の政治事情が許さぬ(海軍次官・豊田貞次郎中将の弁)と海軍首脳部が総じて同盟締結に賛意を示したこともあり、最終的に宇垣も参戦の自主性維持(自動参戦の禁止)を条件として同盟締結に賛成した。 三代一就(当時軍令部作戦課航空主務部員)は、9月15日、海軍大臣・及川古志郎、次官・豊田貞次郎、軍令部次長・近藤信竹等が出席した会議で宇垣は軍令部を代表し単独で三国同盟に反対するも、陸軍との決裂を恐れる他の出席者達に押し切られてしまったと回想している。・・・
 1941年(昭和16年)8月1日、連合艦隊参謀長(兼第一艦隊参謀長)。長官は山本五十六大将。・・・<当時の>山本と宇垣の不和の原因として、宇垣が軍令部で大艦巨砲主義者として大和型戦艦3番艦(信濃)・4番艦(111号艦)の建造を推進したことや、日独伊三国同盟締結問題で変節したことが指摘されることもある。・・・
 <それまで、部下達を特攻に送り出してきた立場だったが、>玉音放送後の特攻<を行い、残った部下達と共に死亡した。この時の部下達のうち亡くなったのは17名。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E7%BA%8F

 かくして9月14日、四相会議と引き続いて政府大本営連絡会議の準備会議が開かれた。
 出席者は、近衛首相、松岡外相、大橋外務次官、東条陸相、阿南陸軍次官、武藤陸軍<軍務局長>、沢田参謀次長、及川海相、豊田海軍次官、阿部海軍軍務局長、近藤軍令部次長であった。
 近藤次長は「速戦即決ならば勝利を得る見込みがある」と述べるとともに、「来春(昭和16年)になれば、戦争としては一段と有利である」と語った。
 この発言の裏には、日本海軍の対米比率がこれまで最高の7割5分になる事から、英仏の撤退によって生じる東南アジアの力の空白をドイツによって占められる前に日本が獲得しようとする計算があった。
 松岡外相は、「日独伊を前々内閣のように曖昧にしてドイツの提案を蹴った場合、ドイツは英国を倒し、最悪の場合は欧州連邦を作り、米国と妥協し、英蘭等を植民地にして、日本には一指も染めさせないだろう。残された道は、独伊との提携以外にない」と述べた。
 こうした発言を受けて及川海相は、「それ以外道はあるまい。ついては海軍軍備の充実につき、政府や陸軍当局も考慮してもらいたい」と述べた。
 及川海相のこうした発言は出席者に、海軍予算の増額と三国軍事同盟を取引したかのような印象をあたえた。」(186)

⇒初めて経歴に立ち入ったところの、近藤信竹にせよ、宇垣纏にせよ、判断能力に欠陥があると言わざるをえません。
 近藤について言えば、陸軍を米本土に送り届けて(ドイツの対米参戦があったとして、そのドイツの協力を得たとしたところで、)米本土を軍事的に制圧できる可能性など無に等しかった以上は「勝機がある」などとは到底言えないはずですし、宇垣について言えば、部下達17名を道連れにして「自殺」した一点だけでも言語道断です。
 とにかく、昭和期の帝国海軍の将官クラスの人事教育体制に致命的欠陥があった感が募るばかりです。(太田)

(続)