太田述正コラム#13178(2022.12.14)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その13)>(2023.3.11公開)

 「・・・英米と開戦し、日中戦争からアジア・太平洋戦争へと拡大した直後の1942(昭和17)年2月、政府は大東亜建設審議会を設置し、大東亜共栄圏構想の立案・審議をさせた。・・・
<その>第一部会が議決し、5月4日の総会で決定された「大東亜建設に関する基礎要件」では、「大東亜建設の基本理念」を次のように定めていた。
 皇国の指導または統治の下、圏内各国および各民族をして各々その所を得しめ道義に立脚する新秩序を確立するを以て要となす・・・
 1942年1月21日、アジア・太平洋戦争開戦直後に開かれた帝国議会で、東条英機首相は、大東亜共栄圏建設の根本方針について、「大東亜の各国家および各民族をして各々その所を得しめ、帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立せんとするにある」とすでに述べていた。・・・
 この「各々その所を得しめ」という表現は、日本人の身分秩序・労働秩序の観念を引きつぎ、不平等な階層観念を表していた。

⇒安達はこの個所の典拠を示していません。(太田)

 この言葉を国際秩序の理念目標として設定したことは、日本を盟主として県内で各国・各民族が大東亜共栄圏建設のために各々相応の役割を果たすことを求めるものだった。

⇒ですから、このくだりは、取敢えずは、安達独自の解釈である、と受け止めざるを得ません。(太田)

 ただし、この理念のなかで、民族自決は認められていない・・・。
 日本が民族自決を容認しなかったことは、第一部会がその後、5月22日に決定した「南方占領地の統治指導の方針答申」で次のように記していることからも明らかである。

⇒「占領地」と言っているのですから、日本による占領終了後はまた別の話でしょう。(太田)

 「大東亜建設の基本理念の闡明に当りては、いやしくもいわゆる民族自決<(注24)>なるがごとき誤解を生ぜしめざるごとく注意す」・・・。

 (注24)「「民族自決」を前提として国家建設をしたソ連,同じ社会主義国でありながら,「民族団結」を前提として国家建設をした中国」
http://www.utp.or.jp/book/b497143.html

⇒ここで民族自決問題には立ち入らないことにしますが、「注24」からも分かるように、中共が民族自決を理念としていないこと一つとっても、1942年時点で日本政府がこういう注意喚起をしたことを否定的にだけ捉えるべきではないでしょう。(太田)

 大東亜共栄圏内の諸民族の独立や自治は、日本の指導や統治の下で与えられ、民族や国家の主権は日本の統制下に置かれて制限されるものだった。
 その一方で「その所」は、明治天皇が五ヵ条の御誓文とともに出した宸翰(天皇直筆の文書)にある「その所を得ざるときは、皆朕が罪なれば」という文言<(注25)>から引いたものである。

 (注25)億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%8B%AC%E8%87%AA%E6%80%A7
 「今般、朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆、朕が罪なれば、」の意味を、髙岡功太郎は、「今やっと、朝政一新の時が到来しました。日本国民の中で一人でもその事を不満に思う人がいれば、それは総て、朕(わたし)の罪です。」としている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%84%E5%85%86%E5%AE%89%E6%92%AB%E5%9B%BD%E5%A8%81%E5%AE%A3%E6%8F%9A%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AE%B8%E7%BF%B0
 高岡功太郎は、板垣退助の次男の乾正士の曾孫。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E6%AD%A3%E5%A3%AB
板垣退助の玄孫にあたる板垣退助先生顕彰会理事長。
https://www.nara-np.co.jp/news/20220928215825.html
 ちなみに、「板垣退助は御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして、明治7年1月12日、征韓論者を集めて愛国公党を設立。同1月17日、民撰議院設立建白書を左院に提出した。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、民選議会を開設すべき根拠とされ自由民権運動が高まる中、明治13年(1880年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉・河野広中らが提出した『国会を開設するの允可を上願する書』でも繰り返し述べられている。明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて、これを阻害する政府に対し批判を繰り返した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87

 その意味は、人びとがその職分に応じて暮らしや生計が成り立つことをいい、天皇・明治新政府が庶民の生活安定を保証する意味を持っていた・・・。

⇒ここで、安達は、「所を得る」の前出の自分の解釈を事実上改め、「よい地位や境遇を得る。適した職を得て力を発揮する。」
https://kotobank.jp/word/%E6%89%80%E3%82%92%E5%BE%97%E3%82%8B-583224
という、標準的解釈・・高岡の解釈もほぼ同じ・・を援用しています。(太田)

 ただし、日本政府や軍の指導者は、占領地の住民の生活を安定させるのは困難だと認識していた。

⇒安達自身が「占領地」と書いていますが、ここは、占領地においても住民に「よい地位や境遇を得」させる、との決意を記したものでしょう。(太田)

 1941年12月1日、開戦を決めた御前会議で賀屋興宣蔵相は次のように明確に説明している。」(46、53~55)

(続く)