太田述正コラム#14722(2025.1.24)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その11)>(2025.4.21公開)

 「弓衆も馬廻衆の一種であるが、弓隊として独立のグループをなし、近侍した。
 天正6年12月の伊丹攻めでは弓衆の平井久右衛門・中野又兵衛・柴山次大夫に命じて、弓衆を三手に分けて町に火矢を打ち入れ放火させた。
 弓衆の一人福田与一は同年正月安土城下にいて家より火事を出し、単身赴任だったことがばれてしまった。
 彼らは信長の出陣に即応できるように城下に屋敷を与えられていたが、福田は尾張の出身地に妻子をおいたままであった。
 単身だから火の不始末が生じたとみた信長は菅谷長頼を奉行として調べさせたところ、弓衆60人、馬廻60人の計120人もが単身赴任だったことがわかり、信長の折檻をうけた。
 信長は尾張の大名である信忠に命じて彼らの私宅を焼き竹木まで伐り倒させて、妻子を安土に強制移住させた。
 そうして罰として彼らに城下の新道を造成させて赦免した。
 家臣の城下町集住策は兵農分離を進め、専業の兵士をつくるための重要な一歩であった。
 柴田・羽柴・明智といった武将や馬廻の多くも兵農分離をしていたが、一部には出身の村との結びつきを持ち続けたいと強く願って屋敷を保ち、妻子・一族で農業経営を続けている者がいたのである。
 信長は、農業経営に軸足をおいた兵では戦えない戦争を展開し、農業からの分離を促進していった。
 そこに信長軍の強さの原因があった。
 しかし、兵農分離が体制として実現するのは豊臣政権の時期である。」(118)

⇒「日本の中世期においては、幕府の地頭、御家人、その郎党といった正規の武士以外に地侍(土豪)、野伏、農民等も武装していた。武士は律令時代の武装開拓農場主を出自とし、農場主が小作人の子弟を郎党として戦時の体制を構成していたため、兵と農は不離あるいは同義語に近く、飢饉時の食料略奪や水争いによる農村間での武力抗争が行われた。また政府の治安維持を担う機能がほぼ都市部に限られ、流通業者も武装しなければならず、農業系武士の代表が鎌倉幕府の御家人たちであるならば、商業系武士の代表としては鉱山経営者であり運輸業者であったといわれる楠木正成等が挙げられる。また寺社も境内や寺領の自衛、政治介入、宗派抗争のために僧兵という軍事制度を持ち、信仰と権威を背景としたその規模は武士団を上回ることもあった。
 つまり武装を必要としない江戸時代の安定を見るまでは、経済的に許される範囲においてあらゆる階層が武装して<いた。>・・・
 戦国末期になると、農業生産力が向上して足軽などの非生産者にも食料が行き渡るようになり、商業発展により経済力をつけた戦国大名の一部には、長期的に兵力を保持する必要から、足軽を継続して雇用したり、家臣団に組み入れる勢力も現れた。加えて村落に居住する侍衆を直接的な農業経営から分離して城下に集めて専任の職業軍人とすれば、召集に必要な時間を短縮できて農繁そして期出兵の問題も解決できた。直臣とすることで忠誠の義務を負わせることで戦況不利時の逃亡や寝返りリスクを軽減することが可能となり、武具の質や軍制の統一も可能となった。しかし非武家階級にとって戦国大名の直臣になるということは、地域の独立勢力として保持してきた軍事・経済的利権を失うことと同義であるため拒絶する勢力も少なくなかった。
 織田政権により大名への完全従属を拒否する惣村・寺社・商人衆への屈服政策が行われた。軍事的には延暦寺焼き討ちや天正伊賀の乱や第一次紀州征伐が起き、織田に仇なすとみなされた堺の一部商人衆も誅殺された。経済的には近畿地方の検地が行われ、寺社の特権となっていた広大な寺領は朝廷の御朱印がないという理由で没収され、検地を拒否した寺社は焼き討ちされた。家臣の領国についても柴田勝家が越前国で検地を開始し細川藤孝の丹後国でも続けられた。
 支配下武士については馬廻衆や弓衆の近習武士と家族たちの城下町への集住が強制されるがそれ以外の、重臣を含めた武士層の妻子たちはこれまで同様領地で暮らしていた。また、身分法令や政策は出さなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E8%BE%B2%E5%88%86%E9%9B%A2
が、このくだりの背景です。
 ですから、この時点では、農民を兼業していた福田与一は兵農分離の対象になっても、商人を兼業していた大脇伝内が兵商分離の対象にならなかったのは不思議ではなかった、というわけです。(太田)

(続く)