太田述正コラム#14724(2025.1.25)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その12)>(2025.4.22公開)
「信長は天正6年(1578)4月9日、突然に右大臣兼右大将の職を辞した。
天下統一がまだ実現していないので、ひとまず辞任し、東夷・北狄・南蛮・西戎を服属させて万国<(注20)>安寧、四海<(注21)>平均<(注22)>が実現したあかつきには、また勅命に応じて官職につきたいというのが表向きの理由である。・・・
(注20)万国=萬國、は、易経‐比卦が初出の漢語であり、日本での初出は、続日本紀‐神亀元年(724)一一月甲子)の「亦有二京師一、帝王為レ居、<萬國>所レ朝」である
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%87%E5%9B%BD-606366
ところ、ここでは日本の都ではなく、支那歴代王朝の都、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E5%B8%AB
を指しており、萬國は「世界のすべての国」を指している
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%87%E5%9B%BD-606366
と考えられる。
そのことは、「東夷・北狄・南蛮・西戎」が、あくまでも支那を中心とした表現であることからも明らかではなかろうか。
(注21)「天下の意。古代の<支那>人は<支那>の四方を海がとりまいていると考えた。《爾雅(じが)》が<支那>の九州の外に四極,その外に四荒,さらにその外に四海がひろがり,四海は九夷,八狄,七戎,六蛮など野蛮人の住地であるというのは,海・・・と晦・・・の音声の類似から,海が文明の光のとどかぬ“晦(くら)い”ところと意識されたからである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B5%B7-517099
転じて、日本で「国内・・・<や>天下」の意味にも用いられるようになった(上掲)が、信長は、ここでは、(「東夷・北狄・南蛮・西戎」という表現もこれあり、)本来の意味で用いたと考えられる。
(注22)「 平定すること。統一すること。「大明、韃靼を—し」〈浄・国性爺〉」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B9%B3%E5%9D%87/
堀新<(注23)>氏がいわれるように、それは天下統一に官位を利用しないことを宣言したものと位置付けることができよう。・・・」(119)
(注23)1961年~。早大文(日本史)卒、同大院単位取得退学、共立女子大講師、助教授、教授、早大博士(文学)。日本中世史、近世史専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%96%B0_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
⇒信長の言上の紹介が正確な要約であるとしてですが、信長は、その2年前の天正4年(1576年)に「尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させ」ることで、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
近衛部隊であった馬廻を近衛軍へと規模を拡大しており、他方、この天正6年(1578)中から中国地方侵攻を本格化させており、日本列島の東海地方より北は基本的に盟友の徳川家康に任せ、自身は西日本を平定したら、間髪を入れず、親率する近衛軍を中心とした日本軍を渡洋させ支那攻略に着手するつもりであったところ、それについて朝廷を無答責とすべく私の言う信長流日蓮主義宣言を行った、と、見ています。
すなわち、堀/池上説は、私としては、信長を矮小化してしまっている、と言わざるを得ません。(太田)
(続く)