太田述正コラム#14726(2025.1.26)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その13)>(2025.4.23公開)
「前年の本願寺との戦争の終結が信長にとっていかに大きな意義をもっていたかを物語<っているが、>天正9年<(1581)>・・・正月8日、安土城下に築いた馬場で爆竹(さぎ・・・ちよう)(左義長)を行った。・・・
(注24)「鎌倉時代にはおこなわれていたらしい。起源は諸説あるが、有力なものは平安時代の宮中行事に求めるもの。当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」という杖で毬をホッケーのように打ち合う「打毬」があった。小正月(1月15日)に宮中の清涼殿の東庭に山科家などから進献された葉竹を束ねたものをたてた。その上に扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付けた。これを陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供された。『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子2人が大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれた。これが民間に伝わり、現在の形になったとされる。・・・
1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる。また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと、その年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると、字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い。
民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。・・・
とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き、おんべ焼き等とも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。とんどを爆竹と当てて記述する文献もある。これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字であろう。・・・
民間・町内会が主体となって行われる場合は基本的に上記したような名称で呼ばれ、寺社が主体となって行われる場合には、お焚き上げ(おたきあげ)・焼納祭(しょうのうさい)と呼ばれたりする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7
小姓衆、・・・一家衆・・・の後から登場した信長は眉墨で眉を引き<(注25)>、黒い南蛮傘<(注26)>、赤<(注27)>い着物、唐綿の袖なし羽織、虎<(注28)>皮の行縢(むかばき)<(注29)>という、異国の風俗をして葦毛の馬に乗っていた。・・・」(126)
(注25)引眉。「眉を剃る、または抜いたあと、除去した眉よりも高い位置に「殿上眉」という長円形の眉を墨で描く。・・・元来は裳着の際に、お歯黒とセットで行われたもので、平安時代中期頃から男性貴族、平家の武将等の元服の時にも行うようになった。
室町時代以降は殿上眉の位置はさらに高くなり、能面にも写されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E7%9C%89
(注26)「安土桃山時代にはスペイン,ポルトガルから西洋帽子が渡来し,南蛮帽,南蛮笠の名で呼ばれ,戦国武将が好んで用いた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E7%AC%A0-1384069#goog_rewarded
(注27)「大昔の中国人の祖先は、太陽を崇拝していた。崇拝の対象は太陽に始まり、動物になり、神話になり、そして宗教になった。朝日や夕日を見てもわかるように、当時の人々にとって太陽は赤色だった。・・・これが中国の赤色崇拝の始まりだという。・・・
周王朝の王室では、陰陽五行説により、赤色が尊重された。『礼記』には、葬儀は早朝の空の赤い時に行わなければならず、軍馬は腹が白く毛の赤い馬にしなければならない、といった決まりが記されている。」
https://yaseteru.hatenablog.com/entry/2022/03/03/174830
(注28)「虎と人間の生活が密接だった古代の<支那>や朝鮮など東アジアでは、虎をトーテムとして崇拝した氏族があり、その名残りから魔除けや山の神として一般的な崇敬の対象になった。・・・
古代より日本人にとって虎の皮は、海外との交易で輸入される唐物の代表だった。・・・渤海使の献進物の中にも虎の皮が含まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9
(注29)「遠行の外出・旅行・狩猟の際に両足の覆いとした布帛 (ふはく) や毛皮の類。中世の武士は騎馬遠行の際の必需品とし、シカの皮を正式として腰から足先までを覆う長いものを着用した。現在も流鏑馬 (やぶさめ) の装束に使用。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A1%8C%E7%B8%A2/
⇒左義長自体は、一般行事に過ぎないけれど、それにかこつけて京で計画していた馬揃の予行演習を行ったと見ますが、それに臨んだ信長のいで立ちに注目すべきでしょう。
私に言わせれば、信長は、引眉は、織田家は平家だから日本の武家の棟梁に自分はならず、支那(赤い着物、唐綿の袖なし羽織、虎皮の行縢)、ひいては欧州(黒い南蛮傘)、に打って出る、と、宣言したのです。(太田)
(続く)