太田述正コラム#14948(2025.5.17)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その17)>(2025.8.12公開)

 また、前述したように、渡辺は、歩兵中心の戦争形態は、楚、呉、越、から始まったとの説に拠っているところ、上掲の「国民皆兵化への歩み」からも分かるように、歩兵化は耕戦士制化、ひいては総動員体制化(徴兵制)、に行き着くモメンタムを内包するのであって、行き着いてしまった各国において、王が、一人一人の青壮年男性を直接把握する必要が生じることから、支那では、全域化に伴って、邑制が封建制に移行するのではなく、邑制が郡県制に移行した、と、言えそうです。
 (これは、ユーラシア大陸東端の支那での話であり、西端では古代ローマを軸に、全く異なった歴史が展開するわけですが、そのことについては、下の囲み記事参照。)(太田)


[耕戦士制の致命的問題点]

 白狄や赤狄といった北狄、すなわち、中原(華夏)的都市文化を共有しない遊牧民族、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%8B%84
が、男性皆兵制であったことと、その総指揮官等が民主的に選定されていたこと、は、支那においては殷当時以降、欧州においてはずっと時代を下ってローマ帝国時代以降、周知の事柄であったと思われる。↓

 「匈奴<については、早くも、>・・・『逸周書』・王会篇・湯四方献令に殷周の初めに犬やラクダ、馬、白玉、良弓を貢献する民族という記述がある。・・・
 匈奴<は、>・・・戦になれば男は皆従軍するほか、女も軍事行動と共に移動する。・・・
 毎年の正月(1月)に、各集団長は単于庭で小会議を開いて祭りを行い、5月には籠城で大会議を開き、彼らの祖先、天と地、神霊を祭った。秋に馬が肥えると、蹛林で大集会を開催し、人民と家畜の数を調べて課税した。新しい単于を選出する時も全体の集会によって決定される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4
 「4世紀の歴史家マルケリヌス・アンミアヌスは・・・フン族には王はおらず、貴族たちに率いられていると述べている。重大な事柄については、彼らは会議を開き、馬上で議論する。ルーア王の頃にフン族全体をまとめる王権が形づくられ、次のアッティラ王の時代に全盛期を迎えた・・・
 フン<の上層部は>モンゴル型種族(モンゴロイド)であった。・・・
 <また、>フン族集団全体としては匈奴の西走集団と系譜的に繋がる<と考えられる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%B3%E6%97%8F

 ただし、欧州においては、アテネが最古の例だが、男性皆兵制と民主制はセットで捉えられており、だからこそ、フンの男性皆兵制と民主的制は注目されず、その皆騎兵制だけが注目されたと考えられる。↓

 「フン族、アヴァール人、マジャ<ー>ル人といった遊牧騎馬民族は、古代末期よりたびたび<欧州>に侵攻して乗馬技術や騎馬戦法をもたらした・・・。ゲルマン諸部族の戦士は、もともと歩兵が多かったが騎兵もフン族やサルマタイ人の影響を受けて次第に増加していった。中世初期のメロヴィング朝でも軍の主力は歩兵であったが、カロリング朝初期の800年前後には少数精鋭の重装騎兵<(騎士)>が軍の中心に据えられた。一説には馬から降りて戦う(下馬騎士)ことが多かったとも言われている。騎乗して戦う騎兵が活躍するようになった背景には、・・・8世紀初頭に・・・伝わった・・・<支那発祥の>鐙(あぶみ)をはじめとする馬具の改良があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%A3%AB
 「封建制・・フューダリズム・・<とは、>・・・国王が諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様のことを臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度であ<り、>・・・この主従関係は・・・お互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であったこともあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。
 さらに「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しなかったため、複雑な権力構造が形成された。これは中世西欧社会が極めて非中央集権的な社会となる要因となった(封建的無秩序)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6
 但し、中世の欧州においては、ゲルマン人のThingによる民主制が、ゲルマン人が支配階級化しかつその男性が騎士化した後も、ドイツ王国を中心とする神聖ローマ帝国における宮廷会議(後の帝国議会)や領邦議会、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E8%AD%B0%E4%BC%9A_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD)
フランス王国における三部会・・但し、長期中断期間あり・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%A8%E4%BC%9A
イギリス王国におけるアングロサクソン諸侯会議 (Witenagemot) (後のキュリア・レジス)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%B9
スペイン王国とポルトガル王国におけるコルテス(Cortes)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B9_(%E8%BA%AB%E5%88%86%E5%88%B6%E8%AD%B0%E4%BC%9A)
等といった形で残ることとなった。
 つまり、騎馬遊牧民族の脅威/刺戟が、欧州では、民主制的なものを残しつつ封建制なる、広義の騎士・・貴族・・中心のプロの戦士を中核とするところの地方分権制、をもたらした、というわけだが、支那では、邑制の封建制化どころか、邑制の完全解消と非民主的な中央集権制化がもたらされてしまうのだ。
 どうしてそんなことになってしまったのか? 
 既述したように、秦の孝公(BC382~BC338。在位:BC361~BC338年)は、耕戦の士を秦で定着させた、つまり、男性皆兵制を確立させたが、それは、北狄の兵制を直接参考にしたものではなかった、というのが、私の想像する、第一の理由だ。

(続く)