太田述正コラム#14950(2025.5.18)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その18)>(2025.8.13公開)
第二の理由は、その後、趙が、北狄の兵制を直接参考にして中原(華夏)諸国の中で最初に騎兵を創設したことだ。↓
「<それまで、>中原において<軍事における>もっとも一般的な馬利用<は>戦車<だった」
https://opac.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/bdyview.do?bodyid=BD00002918&elmid=Body&fname=KJ00004465318.pdf&loginflg=on&once=true
ところ、「紀元前307年、・・・趙<の>・・・武霊王<(在位:BC325~BC298)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%9C%8A%E7%8E%8B
は、>仮想標的を中山に絞り込み<、>さらに<、>・・・胡服を着て騎射を行<うところの、騎兵、を整備する>軍事改革に取り掛か<かっ>た。・・・中山は戦国七雄には含まれ<ない>が、七雄に比肩する力を持った大国<だった>。戦国七雄はどれも都市国家が発展して巨大化した国<だ>が、中山は白狄(はくてき)と呼ばれる異民族が建国した遊牧民族と農耕民族の特徴を持った国家<だっ>た。・・・
紀元前296年。10年の時間をかけて武霊王は中山を完全に滅亡させ・・・た。これにより趙の国土の・・・ひずみは解消され、より外に強く打って出ることが可能にな<っ>た。同時に匈奴をはじめとする遊牧騎馬民族を従え、現在の河北省から内モンゴル自治区に及ぶ広大な土地を支配するに至<る>。」
https://note.com/petithistory/n/na16e2e148de2
しかし、趙は、北狄のように、騎兵だけの兵制にしたわけはないし、秦の耕戦士制(男性皆兵制)を導入したわけでもないので、北狄における民主的制は導入されず、結局、支那統一過程において実質的に最大の敵であった趙から、秦が民主的制を導入する運びにはなりえなかった。
そして、第三の理由として、趙にとってこそ北狄は相当の脅威だったけれど、(同じく騎兵だけの兵制にしたわけではなかった)秦にとっては、天下統一に成功するまでの間、下掲のように、北狄がさしたる脅威ではなかったこともあげられよう。↓
「紀元前318年、匈奴は韓、趙、魏、燕、斉の五国と共に秦を攻撃したが、五国側の惨敗に終わった。
趙の孝成王(在位:前265年 – 前245年)の代、「単于」(ぜんう)の匈奴軍は代の雁門で、将軍の李牧率いる趙軍に撃破された。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4 前掲
私見によれば、このことが、秦における、防戦志向の、反戦、と言ってもいいくらいの、墨家の思想、のホンネのイデオロギーとしての採用(コラム#省略)、及び、江南文化由来の緩治観念の浸透(今後改めて取り上げる)、が相俟って、天下統一達成、すなわち、直接的脅威の消滅、の瞬間から、軍事体制の劣化が加速度的に進行し、国家衰退が運命づけられ、内乱や外患によって王朝が交代し、これと同じプロセスが繰り返される、という、悲喜劇的支那史が支那に運命づけられる、という結果をもたらしたのだ。
「・・・覇者体制を確立することになる文公が晋の国君となった・・・前7世紀後期の晋<においては、>・・・軍制改革と世族<(注27)>支配層の再編が大きな課題となっていた。
(注27)遅ればせながら、辞書に当ってみた。↓
「せいぞく<。>・・・代々血統の続いてきた一族。また、代々禄(ろく)を受ける家柄。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%96%E6%97%8F-545737
<その>晋国では、この少し前の前7世紀半ばごろから階層制聚落群の型式(パターン)を利用し、中心城郭聚落を中核とする県<(注28)>制が徐徐に施行されるようになった。」(54~56)
(注28)「県<の>・・・正字(旧字体)は「縣」で、もと釣り下がる意を表した。元は<支那>の地方行政の名称で官庁を指したが、県の長の管轄する範囲(行政区画)も表すようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C
「起源的には県は秦の武公の10年(前688)に,〈冀の戎を伐(う)って初めてこれを県にする〉と《史記》に見えるのが最も古い。秦,楚,斉などの大国は,領内の新開地を直轄地として中央に懸(か)ける意味で県と呼んだ。これがしだいに封邑の再編成にも使われ,秦の孝公時代には封建領地に41の県が作られている(前350)。郡はさらに辺境の未開地の区域名であったようで,前493年の《春秋左氏伝》の記事が最も古い。郡が開発されてゆくと,その下にいくつか県が置かれ,やがて郡県の上下関係ができたと想定される。」
https://kotobank.jp/word/%E9%83%A1%E7%9C%8C%E5%88%B6-58320
(続く)