太田述正コラム#14952(2025.5.19)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その19)>(2025.8.14公開)
「それは、血縁的系譜関係とは異なる軍事的要素をともなって編成される体制であった。
県として再編された階層制聚落群は世族に所領としてあたえられ、県を領有した世族は、県大夫として県城を中心とする聚落群を支配した。
県は、晋国に係属する公邑であるとともに、世族の采邑(私領)でもあるという二面性をもっていた。
韓氏一族<等の>・・・世族は、・・・数県を族的に領有し、総体として晋国支配者集団を編成した。・・・
世族・諸家が編成する支配者集団に対し、晋国県制の下層では、前6世紀半ばにはすでに農民の徭役編成が組織的に実施されていた。・・・
軍事的編成によって結合している族制的支配者集団は、小経営を形成しつつあった輿人<(注29)>・県人の歩兵への編成と政治社会への進出のなかで解体過程にむかい、そのなかから官僚制にもとづく新しい県制の構築を進めていく。・・・
(注29)「衆人をいう。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BC%BF%E4%BA%BA-2869716
「衆人<とは、>普通の人<、>世間一般の人。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A1%86%E4%BA%BA-526987
晋国では、族制的支配集団の編成する県制から官僚を派遣して統治する県制への転換が、公族滅亡から晋国三分にいたる60年余りのあいだに進行していった。
ただこの過程を具体的に知りうる晋国関係の史料はのこされていない。
比較的具体的な様相がわかるのは、商鞅変法を中核とする秦国の体制改革過程である。・・・
⇒「注28」に照らせば、どうして、ここまで、渡辺が郡県制に関し、秦ではなく晋をもっぱら引き合いに出してきたのか、いささか理解に苦しみます。
「周朝の属国として、その後秦人と西戎は長くて残酷な戦いをした。紀元前822年に荘公の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂(現在の陝西省眉県)の大夫になった。・・・春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。・・・穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、秦は恵公を後援し擁立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6
と、江南文化出の楚とは違って、西戎出の秦は、中原諸国のの浸食よりも西戎地域等、非中原地域へ拡大することで大国化したところ、その新領土を容易に直轄領化、すなわち郡県化し易かったことから、郡県化、つまりは、中央集権化、において、他の諸国に先んじることになった、というのが私の見方です。(太田)
秦国は、前5世紀末から前4世紀中葉にかけて、商鞅の変法とよぶ一連の改革を中心に政治社会の再編をおこなった。
その中核は、小農民・小農社会を戸籍によって把握し、かれらを等級制の爵位をもつ国家の成員に編成して軍役・徭役・租税を負担させることにあった。・・・」(56~58、60)
(続く)