太田述正コラム#14988(2025.6.6)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その37)>(2025.9.1公開)

 この「斉秦互帝(せいしんごてい・・・)は、紀元前288年に・・・秦の昭襄王が西帝を自称し<、>斉の湣王へ魏冄を派遣し秦と斉が盟を結び、<斉は>東帝を称し、共同で趙を攻めるように要請した・・・事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E7%A7%A6%E4%BA%92%E5%B8%9D
だが、その結果、斉において、「「周冣」が「親弗」&「呂礼」ら(<親>秦派)に斉国を追放され、「呂礼」が宰相に任じられるという事件が起こり<、>それに危機を感じた(反秦派)<で>・・・合従で有名な・・・「蘇秦」が<自分の>・・・兄<の>・・・「蘇代」を使って、「孟嘗君」<(反秦派)>に「呂礼」を失脚するよう工作を<行い、>「蘇代」の助言に従った「孟嘗君」は、「斉王」に「呂礼」を追放するように助言し、結果、「呂礼」は斉国を追放されてしま<う>。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320102598
という政争を惹起、恒常化させ、この斉において、自国さえ首肯すれば、いつでも秦は斉秦同盟を締結し、天下を斉と秦で分割することを飲む、という思い込みを醸成することに秦は成功した、というのが私の見方だ。
 なお、「蘇秦・・・は・・・共同で趙へ侵攻するより、暴虐ぶりで『宋の桀』と知られる康王の宋へ侵攻することが有利です」と説<き、それに>斉王は同意し、帝号から王号に戻し<たことを受け、>12月、・・・<秦の>昭襄王<も>帝号を廃し、秦王<に戻>した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E7%A7%A6%E4%BA%92%E5%B8%9D
 そして、「宋<は、その2年後の>・・・紀元前286年、斉・魏・楚の連合軍にあっけなく敗れ、宋王偃は殺され、宋は滅亡し<、その>領地はこの戦勝国により3分された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%8E%8B_(%E5%AE%8B)
が、こうして西進を果した斉との直通回廊の構築を後に秦は目指すことになる。
 (父、恵文王が、恵文君14年(BC324年)に秦として初めて王号を唱えたばかりだというのに、兄武王を経て就位した、昭襄王、が、BC288年に帝号を唱えたことには、対斉謀略の目的だけではなく、墨家の思想により、誰にも隷属しない王となって義の統一を行わなければならない(コラム#1640)と恵文君が思い、昭襄王は、殷王も周王も義の統一を行わなかったことから、更に一歩を進め、王号に代わる君主号を模索していたからだ、というのが私の見方だ。
 ちなみに、秦王政の時に李斯によって誅殺された「韓非子<は、>・・・、<支那の>当時の「顕学」(勢力が顕著だった学派)は、「儒」(儒家)と「墨」(墨家)の二学派であ<る>」としているが、墨家は、楚で栄えた「後、秦に拠点を移し」ていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AE%B6
ところ、池田知久は、この「後期墨家・・秦墨・・(前300~前206)<は>、兼愛・非攻を実現するために現実に妥協して中央集権を理論化・・・し、その根拠づけのために宗教的な天・鬼神の存在を認める<に至り、>・・・末期墨家(前206~)<になると、>・・・この路線変更<を踏まえ、積極的に>秦・漢帝国の体制作りに貢献した」と指摘している。
https://kotobank.jp/word/%E5%A2%A8%E5%AE%B6-132676 
 なお、池田知久(1942年~)は、東大文(中国哲学)卒、同大院博士課程中退、高知大、岐阜大を経て東大助教授、教授、同大博士(文学)、同大名誉教授、大東文化大教授、という人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%9F%A5%E4%B9%85 )(太田)

 昭襄王21年(紀元前286年)、・・・魏の河内を攻めた。魏は安邑を秦に献じた・・・。
 昭襄王22年(紀元前285年)、・・・斉を討<っ>た。・・・

⇒非接壌国を秦単独で攻撃できるわけがないのでミスプリか?(太田)

 同年、昭襄王は・・・三晋(韓・魏・趙)および[斉への復讐のために謀略を行い音頭をとった]燕と共に斉・・[斉は(前述したように)宋を攻撃、滅亡させ、諸国の憤激を買っていた]
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E8%A5%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 []内>
・・を討ち、済水の西で斉を破った(済西の戦い)。・・・

⇒秦(・楚)が最大の脅威だというのに、斉の愚行に気を取られ、対秦(・楚)合従どころか、諸国は、秦(・楚)の脅威から眼をそらせていたわけだ。(太田)

 昭襄王24年(紀元前283年)、魏を攻めて魏の安城を取り、大梁に赴いたが、燕と趙が魏を援けたので、秦軍は兵を引き上げた。・・・
 昭襄王25年(紀元前282年)、昭襄王は趙の2城を陥れた。・・・

⇒秦はついに趙にもサラミ戦術を発動したわけだ。(太田)

 昭襄王27年(紀元前280年)、・・・隴西から兵を出して蜀に出て、楚を討った(黔中の戦い)。・・・

⇒そして、最終的に、楚にもサラミ戦術を発動したように装った。
 バレないように、両国は、相当本格的に戦ったのではなかろうか。(太田)

 同年、・・・趙を討ち、代と光狼城を取った。・・・その後昭襄王は<またも>趙を討<った。>・・・
 昭襄王28年(紀元前279年)、昭襄王は・・・楚を討った(鄢・郢の戦い)。・・・秦軍は楚の内地に進撃し、劣勢な兵力にもかかわらず、水攻めを利用して鄢と鄧の地を取・・・った。
 昭襄王29年(紀元前278年)、・・・楚の首都郢を占領し、楚の先王の陵墓がある夷陵を焼き払った後、竟陵まで至った。鄢・郢の地には南郡が設置され、秦の版図とした。楚の頃襄王は秦軍の攻勢を避けて陳へ逃亡した。・・・
 また、昭襄王30年(紀元前277年)には・・・楚を討ち、巫郡および江南を取り、秦の版図として黔中郡とした。・・・

⇒秦が楚に赫赫たる戦果を挙げたように見えるが、楚は、その前の済西の戦いの結果、東北方の淮北
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8C%97%E5%B8%82
を獲得していたので、その領土の広さに殆ど変化をきたしていないことを忘れてはなるまい。(太田)

 昭襄王31年(紀元前276年)、・・・魏の討伐に命じ<、>魏の2城を取るなど・・・した。
 昭襄王32年(紀元前275年)、・・・魏の討伐を命じ、魏の首都大梁まで迫り、魏将暴鳶の軍を破って遁走させた。
 余勢を駆って、翌昭襄王33年(紀元前274年)・・・にも魏の討伐を命じ、魏の巻・蔡陽・長社の地を取った。
 昭襄王34年(紀元前273年)、魏・・・軍を破り、首級13万を挙げた(華陽の戦い)。
 この年、秦に従わない趙を・・・討<ち>、その士卒2万人を河中に沈めることに成功した。続いて昭襄王は討伐した魏を臣事させ<た。>・・・

⇒秦があえて魏を消滅させなかったことも韜晦ってやつだ。(太田)

 <そして、>本格的な楚討伐に乗り出そうとした。
 秦に使いに来ていた楚の春申君はこれを聞き昭襄王に上書した。春申君は、「今、天下には秦と楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど二匹の虎が互いに戦うようなもので、ともに傷ついてしまい、良策とはいえません。また大王は天下の地を領有し、威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くすれば、いにしえの三王(三皇)や五覇(春秋五覇)と肩を並べられましょう。ここは、逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。
 昭襄王はそれに従い、出兵を取りやめて楚と和親した。その後楚は、人質として太子完(後の考烈王)と春申君を差し出し、秦と楚の大国二国はしばらく争うことがなかった。

⇒秦楚が調整し、そういうストーリーにしたということだろう。
 とにかく、絶対にそれ以外の(魏が抜けた)全諸国の合従が成立しないように、細心の注意を払って、「両国」は着実に天下統一を進めていったというわけだ。(太田)

 昭襄王36年(紀元前271年)、昭襄王は・・・斉を討った。・・・

⇒魏を属国化していたので、斉は事実上秦の接壌国になっていたから、こんなことができるようになったわけだ。(太田)

 昭襄王38年(紀元前269年)、秦に従わない趙を・・・討った(閼与の戦い)。・・・
 昭襄王42年(紀元前265年)、・・・宣太后を廃し、魏冄の宰相職を免じた。また、魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放した。・・・

⇒昭襄王は、慎重の上にも慎重に、楚秦の一体性を気取られないように、宣太后以下と示し合わせた上でそうしたのだろう。(太田)

 昭襄王43年(紀元前264年)、秦に従わない韓を・・・討った(陘城の戦い)。
 同年、楚の頃襄王が病で倒れたため人質として秦にいた楚の太子完は帰国を願い出た。・・・春申君は一計を案じ、・・・太子完<を>・・・ひそかに出国<させたが、>・・・<最終的には>春申君の帰国<も>許した。・・・

⇒春申君は芝居の名人、で決まりだろう。(太田)

 昭襄王47年(紀元前260年)、昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降った<。>・・・<しかし、結局、>趙軍40万<が>降服し・・・<その全員を>穴埋めにして殺した。・・・
 昭襄王48年(紀元前259年)10月、昭襄王は・・・再び上党を平定<し、>・・・韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。・・・
 昭襄王50年(紀元前257年)、昭襄王は援軍を送ったが勝てず、・・・白起の爵位を剥奪し、白起に剣を与えて自害を命じた。白起は自刎し果てた。・・・秦の統一への道は、常勝将軍白起を失い大きく頓挫することとなった。

⇒これは、天下統一のスピードを緩めることで諸国を欺くために、わざと昭襄王がやったことではなかろうか。(太田)

 昭襄王51年(紀元前256年)、昭襄王は・・・鄭を討ち、国都を落とした。

⇒まだ鄭が存続していたとは驚きだが、小国ゆえ、大した波風は立たないと判断し、珍しく、一挙に滅亡させたのだろう。(太田)

 同年12月、趙<を>・・・攻略<し>、趙の寧新中の地を抜くことに成功した。同じころ・・・韓を討ち、韓の陽城・負黍の地を取った。
 この年に、周の赧王と王室の分家の西周の文公(当時の周は、分家である周公家が東西に分裂していた)が秦と敵対し、諸侯と結んで秦を討った。昭襄王は・・・西周を討った。西周の文公は降伏して秦に投じ頓首して罪を謝し、領地の邑と人民を秦に献じ、そのすぐ後に赧王は崩じた。邑と人民を失った周は実質的に滅んだ。
 翌昭襄王52年(紀元前255年)、西周の民は残っていた東周君の領地に逃げ、周に伝わった九鼎は秦に接収された。ここに800年続いた周は滅亡した。残った東周君も、荘襄王元年(紀元前249年)に呂不韋によって攻め滅ぼされ<ることになる>。

⇒周を首の皮一枚残して完全滅亡させなかったのも、そこまですると、楚と魏以外の全ての諸国の合従が成立する恐れが皆無ではなかったからだろう。(太田)

 昭襄王53年(紀元前254年)、天下の諸侯が秦に入朝したが、魏が入朝しなかったため、・・・魏を討<ち、>呉城の地を取った。
 昭襄王56年(紀元前251年)閏9月、昭襄王は75歳で薨去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B 

(続く)