太田述正コラム#14990(2025.6.7)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その38)>(2025.9.2公開)

⇒これから、予期せぬ出来事が続き、次第に楚秦ステルス連衡が瓦解して行くことになる。
 その1は、華陽夫人に子供ができなかったことであり、かつまた、「昭襄王56年(紀元前251年)閏9月、・・・昭襄王が薨去し、安国君が孝文王となり、華陽夫人が華陽后、子楚が太子とな<り、>また母親の唐八子に唐太后<が>諡号<され、>孝文王元年(紀元前250年)10月己亥、父の喪が明けて正式に即位したが、3日後に<その孝文王が>53歳で薨去し<てしまっ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%96%87%E7%8E%8B
ことに伴い、楚公室の血が薄まった、つまりは楚人的養育を殆ど受けなかったところの、子楚、が「予定」よりも大幅に前倒しで秦王(荘襄王)として即位したことだ。
 その2は、今度はこの荘襄王(BC281~BC247年)が、「35歳で・・・在位・・・わずか3年で・・・薨去<してしまった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E8%A5%84%E7%8E%8B
ことだった。
 その3は、「その跡・・・<、更に楚公室の血が薄まった、つまりは、楚人的養育を全く受けなかった>嬴政が秦王に即位<することとなったが、幸か不幸か、>年齢は僅か13歳であり成人の儀も終えておらず、政治は太后と大臣に委ねればならず22歳で成人するまでは親政を行うことはできない状態であ<り、>秦の法における執政権の継承順位として一位が華陽太后、二位が夏太后、生母の趙姫は末位であった<ところ、>・・・嬴政即位時の外戚勢力は<、下掲の>「楚系」「韓系」「趙系」の三つ<、>・・・
楚系 華陽太后、昌平君、昌文君
韓系 夏太后、成蟜
趙系 趙姫、呂不韋、嫪毐
・・・に分けられると、歴史学者の李開元<・・北京大歴史学科卒、東大博士(文学)、日大教授を経て現在北京大人文社会学研究所客員研究員・・
http://www.ihss.pku.edu.cn/templates/yf_xz/index.aspx?nodeid=220&page=ContentPage&contentid=2830
が指摘し>てい<て、楚系が一定の、しかも相対的に抜きんでた、影響力を及ぼすことはできたとはいえ、>・・・これまでの慣例から秦王嬴政の婚姻には華陽太后が大きく影響力を持っていたと考えられ、<例えば、私は異論があるけれど、嬴政の長子扶蘇の母親となった女性は華陽太后や昌平君・昌文君らが自らの祖国である、楚の公族から選んだ者であったのではないかと日本の考古学者で愛媛大学名誉教授の藤田勝久は主張している<ところ、政務に関しては、>・・・華陽太后が秦王政17年(紀元前230年)に薨去した事と、<その年に>30歳を迎えた秦王嬴政の親政に伴い、外戚勢力の影響力は影を潜めていく」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
までの間は、楚勢力、すなわち、楚秦ステルス連衡推進勢力の秦における力が甚だしく低下する事態となってしまったことだ。
 そもそも、即位時に13歳の政に対して、それまでに、父荘襄王が、楚秦ステルス連衡についてきちんと伝達していたかどうかすら怪しいものだし、その後、この連衡について華陽太后が政に伝達する機会はあっただろうが、政は、30歳になるまでは、(楚秦ステルス連衡のことなど全く知らない)自分の「仲父(ちゅうほ)たる(荘襄王の時からの)相邦たる呂不韋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E4%B8%8D%E9%9F%8B
に異論を唱えられる立場にはなかったと考えられることも指摘しておこう。
 その4は、この政が、春秋戦国時代の国主となった者達の中でもとりわけ過酷な青少年時代を送った・・「政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た・・・が、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)<と>・・・昭襄王50年(紀元前257年)に・・・邯鄲を包囲した・・・ため、趙側に処刑されかけ・・・、番人を買収して秦への脱出に成功した<ものの、>妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされ<、>趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった」し、荘襄王の死後、「呂不韋<が>・・・太后となった趙姫とまた関係を持<ち、更に、>・・・嫪毐<を、その>・・・あごひげと眉を抜き、宦官に成りすま<させ>て後宮に入<れた結果、>・・・やがて太后・・・<と>の間に・・・二人の男児が生まれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
・・ことから、私の言葉を用いれば、楚の公室の弥生的縄文性と秦の公室の弥生性が両公室の事実上の一体化によって縄文的弥生性を帯びるようになっていたというのに、弥生性こそ帯びているが、(広義の中原諸国の被治者達同様の人間不信の利己的)普通人になってしまった、秦王政の下で天下統一がなってしまったことだった。
 (「陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となった・・・幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している」(上掲)とだけ言っているようだが、幼少時や青年時の体験のプラス面だけでなく、マイナス面も見ないとは!)
 この結果、一体どういうことになったのかを後述する。(太田)

 「荘襄王元年(紀元前249年)、東周が諸侯と謀って秦を裏切ろうとすると、呂不韋を派遣してこれを討伐し、東周を滅ぼした。・・・

⇒昭襄王がやってきたことを完結させたわけだ。(太田)

 一方、蒙驁(蒙恬の祖父)は韓を攻めて成皋と鞏を取る。この頃、秦の国境は魏の都である大梁まで至り、三川郡を設置する。
 荘襄王2年(紀元前248年)、蒙驁が趙を攻めて太原を平定させる。
 荘襄王3年(紀元前247年)、魏の高都と汲を取り、趙の37もの城を奪い、長平の戦いの舞台となった上党の地も完全制圧する。初めて太原郡を設置する。・・・魏の信陵君が5国をまとめ上げて反撃に出て、蒙驁の率いる秦軍を破り、函谷関まで追撃して秦を追い詰めた(河外の戦い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E8%A5%84%E7%8E%8B

⇒その他の諸国に対してはサラミ戦術を継続したが、大きな成果を挙げたとは言い難い。 なお、河外の戦いにおける5国とは、魏・趙・韓・燕・楚であり、斉が加わらなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%A4%96%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
のは楚が形の上で派兵したことの「成果」であると考えられ、楚秦ステルス連衡が荘襄王の時にも機能していたことが推察できよう。(太田)

(続く)