太田述正コラム#15014(2025.6.18)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その46)>(2025.9.13公開)

 「・・・武帝劉徹(在位前141~前87)の時代には、・・・王国・侯国は、直轄郡県とまったく変わらなくなった。・・・
 ここに戦国の体制は実質的に終末をむかえた。・・・
 武帝は、・・・文帝・景帝時代の財政的蓄積を背景にたびたび外征をおこなった。
 衛青<(注39)>(?~前106)や霍去病<(注40)>(前145~前117)などの武将を用い、これまで臣従を余儀なくされてきた匈奴に対して反攻を開始した。・・・

 (注39)母は<賎民である>婢であ<り、>・・・幼少から匈奴と境を接する北方で羊の放牧の仕事をし、匈奴の生活や文化に詳し<く、>・・・騎射の名手であった<が、>・・・姉の衛子夫が武帝の寵姫となった<おかげで、武帝に>・・・引き立て入れる。
 匈奴征伐に際して車騎将軍に任命され、・・・多大な功績を挙げる。その後、軍功により大司馬大将軍にまで出世するが、政治にはあまり口出ししなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E9%9D%92
 「大司馬<は、>・・・現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職が設けられる場合もあった。・・・前漢では、三公(三つの最高官職の内の一つ)の中の一つであった。恵帝6年(紀元前189年)に周勃が太尉となったのが漢での最初である。武帝の建元2年(紀元前139年)に田蚡が免官されて以後は太尉は置かれず、事実上の廃止となる。武帝の元狩4年(紀元前119年)に大将軍衛青と驃騎将軍霍去病を並立させるため、初めて大司馬が霍去病に与えられ、将軍号に冠した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%B8%E9%A6%AC
 (注40)「霍去病の母の妹にあたる衛子夫が武帝に寵愛され劉拠を生んで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も武帝の覚えが良く寵愛されていた。また、漢王朝創立時からの功臣である陳平の玄孫の陳掌は霍去病の母と密通しており、霍去病の義父となった。
 騎射に優れており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、3万の首を上げ、紀元前121年に史上初の驃騎将軍に、さらに紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。大功と武帝の寵愛により並ぶ者が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死した。・・・
 ある時、武帝が孫氏・呉氏の兵法を教えようとしても「昔の兵法など知る必要はなく実戦の中で考えれば良いだけだと思います」と答えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8D%E5%8E%BB%E7%97%85

⇒半分賤民出身のしかも叔父甥関係の衛青と霍去病をネポティズムで武帝が、潜在敵に係る知識経験と戦闘技術だけに着目して軍の高位に就けたことで、秦の始皇帝に始まる軍事軽視は漢人王朝において確立するに至った、と言っていいでしょう。
 220年に魏(三国)から始まる九品官人法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%93%81%E5%AE%98%E4%BA%BA%E6%B3%95
にせよ、598年に隋から始まる科挙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
にしても、メリットによる文官登用制度として始まったものであるところ、軍人をネポティズムによらずメリットで登用するという考え方や将校を戦略・戦術等を教えて養成するといった発想が、(前者については既に説明したように、後者については、孫氏・呉氏の兵法を霍去病がバカにしたのを武帝が窘めなかったという挿話があたかも予言していたかのように、)ついに確立することのないまま漢人文明は推移することになってしまうのです。(太田)

 武帝は、・・・まず、・・・「三輔」とよ<ぶ>首都圏を編成した。
 同時に、漢人の住む領域を内郡地域・・・とし、辺境・・・領域を辺郡地域・・・とした・・・。」(85~87)

(続く)