太田述正コラム#15190(2025.9.14)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その20)>(2025.12.9公開)
「・・・12世紀から13世紀初頭にかけてのユーラシア東方では、金とカラ=キタイ<(注49)>という二大強国が、河西回廊<(注50)>をはさんで、東西に並び立つ構図となった・・・。・・・
(注49)「遼の復興を掲げて建てられた西遼では、故国の<支那>文化が継承されていた。<支那>式の元号が使用され、君主の没時には廟号が追贈された。・・・官庁では<漢>語と契丹語が公用語として使用されていたが、さらにペルシア語とウイグル語も使われていた。また、王朝では康国通宝という<支那>風の貨幣が鋳造されていた。
しかし、西遼の<支那>文化は支配下に置いていたオアシス都市のトルコ・イスラム文化にはほとんど影響を与えず、逆に支配層がイスラム文化の影響を受けた。・・・
支配層の契丹人の間では仏教が信仰されていた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%81%BC
(注50)かせいかいろう(甘粛回廊とも)。「点在するオアシスをつな<ぐ>,<支那>と中央アジアを結ぶ・・・北のモンゴル高原南縁山地と南の祁連(きれん)山脈の間,長さ約1000km,幅数km~100kmの廊下状の平地<たる>・・・回廊地帯・・・<で>,東西交通の要衝。・・・
<その>交通,軍事上の要地<が>・・・蘭州<だ。>・・・
匈奴の支配下にあったが,張騫 (ちようけん) の西方探索によって前漢武帝が河西4郡を設置,漢人がこの地域へ進出するようになった。唐代には河西[・・黄河の西側・・]節度使が置かれたが,安史の乱後は吐蕃の勢力下にはいり,11世紀には西夏の支配下にはいった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B2%B3%E8%A5%BF%E5%9B%9E%E5%BB%8A-44725
1165年<の>・・・金宋間の第三次和議(大定和議・隆興和議)<(注51)では、>・・・金は南宋の臣従を解消するなど大幅に譲歩したが、1142年の第二次和議の基本枠組みは維持され、あくまでも金が上位にあることは変わりな<く、>・・・澶淵体制の可変的な擬制親族関係とは似て非なるものであった。・・・」(168、172)
(注51)「秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石磯の戦い(紹興31年/1161年)で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(世宗)が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙眘(孝宗)が即位した。・・・
金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%8B
世宗(せいそう。1123~1189年。皇帝:1161~1189年)。「暴政と長引いた戦争のため窮乏した財政を再建し、税制改革を行ったり、官吏の人事を一新したりなど、様々な改革を行った。また漢族の文化にも理解を示して文化を発展させるなど、「中興の名君」と呼ばれるのにふさわしい様々な事業を行い、小堯舜と称された。
このように、世宗の治世は金の最盛期と評価され、後世においては大定の治として高く評価されている。しかしその一方で、猛安・謀克の軍事集団に組織化されていた女真人が長引く平和に慣れ、さらに漢人と雑居して経済的には没落し、文化的には漢人と同化して<支那>社会に埋没してゆく傾向が露わになった。世宗は女真文字の使用を奨励し、女真の風俗文化を維持する政策を採ったが、ほとんど効果はなく、金の軍事力を支えた女真軍団の形骸化が進んでいった。
また、財政再建の過程で増税を行なったために民衆の生活は逼迫して、その後の社会の不安定化や国家衰退の要因になったとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E5%AE%97_(%E9%87%91)
孝宗(1127~1194年。皇帝:1162~1189年)。「余剰な官吏の削減・当時乱発されていた会子(紙幣)の発行抑制、農村の生産力回復、江南経済の活性化など様々な国内改革に取り組んだほか、高宗時代に処刑された対金強硬派の代表人物岳飛の名誉回復を行うなど、南宋の全盛期を現出した。
その一方で、秦檜の強権的な政治に対する反省から、科挙官僚を中心とした士大夫層を牽制するために宗室や武官でも有能な人物を抜擢した。例えば、閤門舎人を設けて武挙に合格した武官の中でも学問に通じた者を閤門舎人更にその上の知閤門事に任じて側近に加えている。また、宰相を空位にすることも多く、北宋・南宋を通じて宰相が置かれなかった期間のべ77カ月のうち53カ月が孝宗の時代のことであった。この期間にも参知政事ら執政(副宰相格)は置かれていたとは言え、皇帝の力が強い時代であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
⇒世宗は、比較的良い意味で金を漢人文明化したとはいえ、だからこそ、軍事軽視を進行するにまかせて金の将来の滅亡を確定させたと言っていいでしょうし、南宋の孝宗が、宰相を置かなかったことが多かったことは褒められたものではなく、また、武官を積極的に登用したと言っても、武挙の改善や将校教育制度の導入を行ったわけでもないので、これまた、殆ど賞賛には値しないでしょう。(太田)
(続く)