太田述正コラム#15226(2025.10.2)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その5)>(2025.12.27公開)
「・・・宮崎市定<(コラム#11550)>は、後継者選びで試行錯誤を繰り返しており、>・・・名君と謳われた康熙帝も家庭人としては寧ろ失格者だった<、とする>。・・・
<その>康熙帝<いわく、>・・・漢人は人心が一つにまとまらない。
満洲人やモンゴル人は数十万の人でも、みな心を一つにする。
朕は多年、君臨してきて、いつも漢人が難治だと思ってきた。
心を一つにしないからである。・・・
これは『清実録』という根本史料<の出てくるところ、>・・・1716年(康熙55年)冬のことだった。
ところが、どうやら事実はそうではないらしい。
柳澤明<(注8)>の研究に拠れば、「起居注」というもっとリアルタイムの史料があり、そちらをみると、右顧左眄して「一心」にならないのは、使えない漢人の官僚であった。
(注8)1984.3 早大一文(東洋史)卒、同大修士、同大博士後期課程単位取得満期退学、同大文専任講師、同大文学学術院教授。
https://www.waseda.jp/inst/wias/other/2015/04/01/722/
康熙帝の「爾(なんじ)ら漢人」というセリフは、目前の官僚たちを𠮟責した、としか読めないし、「難治」という文言も存在しない。
いくら同じく「心を一つにしない」といっても、「難治」の漢人一般と無能な漢人官僚とでは、文意・文脈はあまりにかけ離れているだろう。・・・
⇒皇帝が漢人庶民と接する機会などあるとは思えず、こんなものはためにする議論に過ぎないのではないでしょうか。
いずれにせよ、はっきりしているのは、魯迅の言う阿Q(支那的普通人)が大部分である漢人・・それは、苛政と緩治がもたらした部分が大きいわけですが・・は、それが庶民であれ、官僚であり、バラバラであって統治/制御するのが・・善政/善導を試みても、と、言い換えてもよろしいが、・・容易ではないのは当然です。(太田)
『実録』が記述を改めた、康熙帝の発言を修改したことにな<る。>・・・
<ということは、>『清実録』のほうの文言は、康熙の後を嗣いだ雍正帝の意思が、多かれ少なかれ働いていた、とみるのが妥当であろう。
⇒『清実録』と「起居注」のどちらの記述に拠るにせよ、康熙帝の漢人統治が失敗だったことを、その記述内容だけから判定することは不可能であり、岡本が何を言っているのか、私には理解できません。
(康熙帝の「斉家」が失敗したことをもって、『礼記』「大学」に言う、修身斉家治国平天下、なる儒教の実践倫理
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%AE%E8%BA%AB%E6%96%89%E5%AE%B6%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E4%B8%8B-526978
に照らし、当然、治国平天下、が成功するわけがない、という、形式論理に拠らない限り・・。)※(太田)
私見を端的にいうなら、雍正帝は父帝じしんの口を借りて、その漢人統治は失敗だった、と判定したのである。・・・
⇒ですから、かかる、岡本の雍正帝の心中推察も、私には理解不能です。☆(太田)
宮崎市定の辛い採点も、・・・こうした雍正帝の評価を体したものだった。」(48、50~51)
⇒すぐ上の※と☆を、ここで、再度繰り返しておきたいと思います。(太田)
(続く)