太田述正コラム#15228(2025.10.3)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その6)>(2025.12.28公開)
「・・・雍正帝は姿勢を転換した。
康熙帝までの迎合を排して、大多数の慣例・通念に挑戦したのである。・・・
それがいわゆる「奏摺<(注9)>(そうしゅう)政治」であった。・・・
(注9)「官僚が皇帝に上奏するには,公式ルートを通じる題奏(題本)と直接,皇帝に密奏する摺奏(奏摺)の二つのルートがあったが,帝は後者を重んじ,地方官から積極的に情報を収集してみずから朱筆で意見を書き加えた(硃批(しゆひ)という)。このため重要な政治問題の決裁はすべて摺奏を通じて行われることになり,皇帝権力のいっそうの強化をもたらした。・・・
軍機処<は、>(1)毎日,皇帝に進見して諮問に応じること。(2)〈題本〉という,内閣を経由する上奏文を処理し,また〈奏摺〉という,皇帝へ直接届けられる上奏文の処理を補佐すること。特に奏摺は独裁君主制の確立に重要な役割を果たした制度であり,その維持運営にとって軍機処は不可欠な機関であった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%8F%E6%91%BA-1355380
⇒こういう、優秀で勤勉で頑健な皇帝でなくなった瞬間に維持できなくなるような統治制度は、それだけで、失敗が運命づけられている、で、終わりです。
いや、そもそも、そんな統治制度を導入するようでは、優秀な皇帝とは言えないのであって、雍正帝は皇帝失格であった、と断じられてしかるべきでしょう。(太田)
伝来の体制・組織に手をつけない「因俗而治」のまま、裏面の奏摺政治で「衰世」に抗う実務をすすめ<ということだ>。・・・
<そこで、>いわば二重政治を通じた対症療法<をとったわけだ>。
おびただしい手間・労力のかかるものだった。
その負担は誰より、帝本人の生活と身体にのしかかったのである。
朝は4時に起床、6時には百官が出勤して公開の政務が午後まで続いた。
ふつう8時に就寝する夜の時間を、帝は摺奏のやりとりにあて、深更に及ぶこともあった。・・・
そうした献身的な治世のすえ、雍正帝が崩御したのは1735年、享年58、・・・早世といってよい。
やはり過労が祟ったのであろう。
しかしその改革事業は、後世から長期的にみれば、ほとんど烏有に帰した。
帝の善意と努力からすれば、悲劇的な経過だといってよい。
⇒雍正帝は、そうなることは火を見るよりも明らかだったのに、それが分からないほど無能だったのか、分かっちゃいるけどやめられない精神病的ワーカホリックだったのか、どちらか、或いは、その両方でしょうね。(太田)
乾隆帝が即位すると、さっそく反動がはじまる。・・・
雍正の改革でできた既成の制度は、やめるわけにもいかない。
だから養廉銀<(注10)>も軍機処<(注9)>も存続している。
(注10)「明代以来の官僚の給与はきわめて低く,そのため官界の腐敗にははなはだしいものがあった。地方官は徴税の際,付加税を恣意的に徴収して生活費にあて,上官は下僚からの付け届けに頼っていた。このような状況に対し,雍正帝(在位1723-35)は綱紀粛正と財政改革とをかねて,付加税の徴収を一定限度まで公認し,それを財源として養廉銀を支給することにした。その額は地位により地方により異なったが,本俸の数倍からときに数百倍に上る例もある。山西,河南から始まって順次全国に実施された。当初は臨時措置のはずであったが,乾隆年間(1736-95)には制度化された。
ただし養廉の効果はあまり続かず,官界の腐敗は再び進行した。なお武官にも同様な手当が設けられたが,この方は空糧とか親丁名糧とかよばれた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%A4%8A%E5%BB%89%E9%8A%80-145900
けれども・・・「奏摺政治」は、雍正帝にしかできない以上、残るにしても公開されて、普通の公文書のやりとりにならざるをえなかった。」(55、61~62、64)
(続く)