太田述正コラム#15230(2025.10.4)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その7)>(2025.12.29公開)
「・・・乾隆インフレ<は、>・・・康熙デフレとは逆の事態、因果関係であった。
17世紀の前半までは日本・日中貿易が銀の供給源であって、18世紀後半以降は、イギリス・西洋貿易がその日本に取って代わったのである。・・・
当時の中国の国民純収入に比した貿易額の割合は、1.5%だったという推計・試算がある。
同じ時期のイギリスは26%にのぼった。
このような数値だけみれば、中国経済の貿易に対する依存度は少ない、という印象をもちかねない。
しかし実情はどうやら逆のようである。
それを説明するにあたっては、岸本美緒<(注11)>の卓抜な「貯水池群」の譬喩<(ひゆ)>を拝借したい。
(注11)1952年~。東大文(東洋史)卒、同大博士課程中退、同大東洋文化研究所助手、お茶大文教育学部専任講師、同大助教授、東大文助教授、教授、同大人文社会系研究科教授、お茶大人間文化創成科学研究科教授、同大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E7%B7%92
清代中国の市場構造は「水路でつながれた、段差のある小貯水池群」になぞらえられる。
それぞれの「貯水池」は水路で結ばれ、「いわば動脈がだんだんと枝分かれして毛細血管へとつながっていくような構造になって」おり、より上段の「貯水池」から流れ込む水で満たされた。
この「水」とは貨幣・銀のことを、「貯水池」とは各地域の市場ユニットをたとえている。・・・
ここで重要なポイントが二点ある。
ひとつは、「一つ一つの貯水池の底は浅」かったことである。
外から絶えざる供給がないと、「水」がすぐ枯渇してしまう作りになっていた。
つまり、各々の景気浮揚につながる商品の販売を生みだす需要は、ほぼ外からしか来なかった、内になかった、という意味である。
内需がごく微弱だったのは、とりもなおさず市場内部の自給率が高かったからであり、各「貯水池」は「水」が枯れても存立は可能だった。
しかし内部だけで富裕になれるほど、完結した経済構造だったわけではない。
その景況は外部の動向に深く依存していた。
そして第二に、その「水」を流し込む水源である。
「水」=需要・銀の最大の供給元は何か、といえば、それは外国貿易であった。
生産・流通の拡大には、需要・銀が必要である。
しかも大陸では、明代からすでに銀鉱脈が枯渇していて、貨幣となる貴金属は、ほぼ海外からの輸入に頼らざるをえなかった。
そうした条件が明清中国の外国貿易のモチベーションになっていたのであり、明代に「倭寇」をひきおこし、清代に「互市」<(注12)>の制度に落ち着かせたゆえんである。」(78~82)
(注12)ごし。「16世紀後半になると後期倭寇により<、明の>海禁政策は行き詰まり、朝貢によらない私貿易を容認した。これは次の清朝にも引き継がれ、朝貢体制の外側に、外交を伴わない形での互市体制が作られることになる。江戸時代の日本も互市体制のもとで清朝側と貿易を行った。
ただし清朝は海禁を完全に解いて自由貿易を認めたわけではなく、様々な規制を設けて管理しようとした。その一つが欧米との貿易を広州のみに絞った広東貿易体制である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%92%E5%B8%82
⇒「清王朝は、明の紙幣政策が失敗した点を参考として、紙幣を発行しなかった。・・・ <また、>ポルトガルは、マカオを拠点とする南蛮貿易で倭銀と呼ばれる日本産の銀を運んだ。スペインはガレオン貿易やマニラ・ガレオンと呼ばれる定期航路で、中南米のポトシやサカテカスで採掘した銀を運んだ。明政府も銀による納税を認め、一条鞭法という銀本位制を定めることにな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%98%8E%E5%AE%9D%E9%88%94
という背景、経緯があったとはいえ、外国貿易を当時の日本のように政府の完全統制下に置いた上で、銀本位制を廃止し、元の時代のような紙幣制に戻すことを考えなかった清当局が間違っていた感が否めません。
もちろん、苛政に陥らない範囲で政府が公共事業や戦争等の形で有効需要喚起政策をとろうとしなかったことも責められるべきでしょう。(太田)
(続く)