太田述正コラム#15401(2025.12.29)
<皆さんとディスカッション(続x6460)/映画評論531:銀河ヒッチハイク・ガイド>
<太田>
コラム#15399の訂正。
民主党から2人目のスタッフがなかなか紹介されないのでしびれを切らせて自分のつてで見つけ、彼女に民主党指定のメインスタッフ給与を支払うこととし、最初に採用したスタッフは民主党指定のサブスタッフ給与を払うことにした、という経緯だったことを思い出した。
<QcGfsFCY>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
久しく見なかった<TA>さん、なんか「発病」されてますね笑。
過去にも居たけど皆訳のわからない恨み辛みをし出すのは何なんだろうか?
⇒前のTAさんとは違うTAさん。(太田)
<zQCMuC62>(同上)
もう昭和100年も終わることですし、太田氏が考える天皇論を教えてください。
⇒まとめサイト、まーだ?
天皇は、日本における、文明ないしモードの転換者。(太田)
<太田>
安倍問題/防衛費増。↓
なし。
ウクライナ問題/ガザ戦争。↓
なし。
妄想瘋癲老人米国。↓
それでは、その他の国内記事の紹介です。↓
お世話になっとりやす。↓
「日本などでのベトナム人労働者、重圧に苦しみ心は荒れ果て・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b967181-s43-c30-d0198.html
あれこれ私がイチャモンをつけたが、呉座勇一が書いていることは概ね正しい。
しかし、問題は、呉座が、彼が批判している笠谷和比古・・現在、彼の著書をシリーズで取り上げ中・・も含め、石田三成参戦の時点で必敗になるのは明白だったのに、どうして西軍が形成されたのか、いやそもそも、そんなことは分かり切っていたはずなのに三成がどうして参戦したのか、そして、毛利輝元がどうしてそんな西軍の総帥を引き受けざるをえなかったのか、であることを直視していないことだ。
北政所も淀殿も、西軍必敗と考えなかったようである以上、秀吉をカガミとすれば、北政所は単なる愚妻、淀殿はドアホ側室、で決まりであり、その折2人がどう動いたかなど、関ケ原の戦いに関しては些事に過ぎない。↓
「「淀殿は豊臣家を滅ぼした悪女」とは言えない…教科書には載っていない秀吉の側室と正室・北政所の本当の関係・・・
<そんなん、秀吉の意向に沿った動きだったに決まってんじゃん。↓>
・・・秀吉生前、北政所は朝鮮出兵を巡る講和問題で失脚しかけた小西行長を慰撫し、武功派(武断派)と吏僚派(文治派)の均衡を保つ姿勢を示していた。この経験が、<三成>襲撃事件の解決に活かされた。
もちろん北政所の調停は、家康、毛利輝元、上杉景勝ら大老衆が進めていた事件処理と無関係ではなく、むしろそれらを後押しするものにすぎなかっただろう。とはいえ、山科言経が北政所の貢献を特記した事実は無視できない。
<淀殿との>不仲説の根拠とされる淀殿の素行問題とは、慶長4年9月に浮上した淀殿と大野治長(淀殿の乳母である大蔵卿局の息子)との密通疑惑である。・・・この疑惑が発覚し、家康と毛利輝元が大坂に留まることを決定したとされる・・・。
ただし家康が大坂に留まった真の理由は、前田利長(利家の嫡男)・浅野長政・大野治長らによる家康暗殺計画の噂が広まったことにある。家康暗殺の噂に尾ひれがつく形で、密通疑惑も持ち上がったのだろう。渡辺世祐や桑田忠親は、淀殿の醜聞が北政所の大坂退去の原因であるとし、両者の不和を強調する。
だが、密通の真偽は不明である。・・・大野治長が関東に流され途中で殺されたと<もされ>るが、実際には治長は下総国結城に追放された後、関ヶ原合戦後に秀頼の側近に復帰している。また、大蔵卿局も追放されたと噂されたが、事実は京都近郊に留まり、影響力を保持していた。・・・
<目的はドアホ側室に秀頼をスポイルさせるため、だよー。↓>
実は秀吉の最晩年の計画では、秀頼(と淀殿)を伏見から大坂に移し、秀吉と北政所は伏見に「隠居」することになっていた・・・。・・・
慶長4年9月に北政所が大坂を出たのは、家康の大坂入りを契機としつつ、秀吉を祀(まつ)る豊国社への参拝や京都新城(秀頼の京都における新たな拠点)の整備、朝廷との折衝など、京都における豊臣家の「公儀」(全国政権)としての威信を維持する役割に移行するためだった。北政所の京都移住は、淀殿との不和ではなく、豊臣家の二元的統治構造(京都・大坂)を支えるための淀殿との分担によるものだった。
翌慶長5年6月の北政所の大坂下向とそれに伴う大蔵卿局の赦免は、北政所と淀殿の協力関係を最も明確に示す事例である。この時期、豊臣政権は家康の会津征伐をめぐって揺れ動いており、淀殿は秀頼の安全を確保するために動いていた。
・・・家康が6月16日に大坂を出発して会津へ向かう意向を示すと、淀殿は家康を大坂に引き留め、家康の出陣を阻止しようとした・・・。
家康という実力者が大坂を離れることで豊臣政権が求心力を失い、京・大坂周辺の治安が悪化することを恐れたのである。
彼女は奉行衆を使者として家康に派遣しようとしたが、家康の不機嫌により失敗した。そこで5月27日、北政所が「秀頼様御見廻(見舞い)」を名目に大坂に下向し、家康との交渉を試みた・・・。
北政所は家康の説得(会津征伐中止)には失敗したが、大蔵卿局の赦免を勝ち取り、大蔵卿局は6月4日に大坂に戻った・・・。一定の成果を得た北政所は京都新城に帰還した。大蔵卿局は前年9月の家康暗殺計画への関与を疑われて大坂を離れており、彼女の赦免は淀殿にとって重要な問題だった。
・・・大蔵卿局は淀殿の乳母であり、秀頼の側近である大野治長の母として豊臣家の中枢に位置していた。彼女の失脚は淀殿の政治的基盤を揺さぶるものであり、その赦免に北政所が尽力したことは、淀殿への支援に他ならない。・・・
9月3日から14日にかけて行われた大津城攻防戦は、北政所と淀殿の協力が明確に現れた事例である。
京極高次が籠城する大津城は西軍に包囲され、城内には秀吉の「別妻」で茶々の従姉(浅井長政の姉の娘)である松の丸殿(京極龍子)がいた。
北政所は侍女の孝蔵主を、淀殿は饗庭局(・・・海津局と<もされ>る)と木食上人応其を使者として大津に派遣し、高次の降伏を促して松の丸殿を救出した・・・。・・・
北政所は、近所にある禁裏(天皇の居所)が戦火に巻き込まれるのを避けるため、という名目で京都新城の石垣や櫓やぐらを破却した・・・。この城破りは、東西両軍のいずれにも与せず、中立を宣言する行為であった。
しかし北政所の甥の木下勝俊・利房が西軍に属しており、東軍から西軍寄りとみなされても不思議はなかった。大津城開城交渉にしても、京極高次の早期降伏が西軍有利に働くことを考慮すると、西軍への加担と解されかねない。実際のところ北政所は、中立を標榜しつつ、上方(近畿地方)を軍事制圧した西軍に肩入れしていたのだろう。
大津城開城の翌日、9月15日の関ヶ原合戦で東軍が勝利し、戦局は急変した。17日夜、北政所は後陽成天皇の生母である勧修寺晴子の屋敷に裸足で逃げ込んだ・・・。北政所は、西軍への協力を東軍に責められるのではないかと恐れたのである。
不仲説の根拠とされる8月28日付の黒田長政・浅野幸長の小早川秀秋宛て連署書状は、自分たちの北政所への忠誠を強調し、秀秋に東軍への協力を促す内容である・・・。笠谷和比古氏はこれを、北政所が東軍を支持し、淀殿と対立していた証拠とする。
けれども右書状は、黒田らが自身の東軍参加を正当化し、秀秋を説得するために北政所の名を利用したもので、北政所が東軍を支持していた証拠とは言えない。秀秋は北政所の手元で育った養子であり、北政所との関係が深いため、黒田らは「政所様へ相つき、御馳走申さず候はでは叶はざる」と述べ、自分たちの家康への加担は北政所の意思に沿うものであると秀秋に訴えたのだ。
<全く「対応」になどなっていないムダ骨折りだったわけだが・・。↓>
以上見てきた通り、北政所と淀殿は、東西両軍の対立の中、役割を補完し合いながら豊臣家の危機に対応した。・・・」」
https://president.jp/articles/-/106585?page=1
日・文カルト問題。↓
<更なる究明を。↓>
「旧統一教会、「韓日海底トンネル」などの事業用に財団やNGO設立し政治家と広範囲に接触…韓国警察はロビー疑惑を本格捜査へ ・・・
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2025/12/29/2025122980044.html
「統一教、政治的後見人を通して呉巨敦元釜山市長に韓日海底トンネル働きかけか・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342717
<本件に関心を持つことを許す。↓>
「日本、来年7月から出国税を3倍に引き上げ 観光公害対策の財源に充当へ・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342702
<文カルト健在。↓>
「慰安婦合意を事実上破棄してその後も放置…生存被害者は46人→6人・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342704
<健闘を称える。↓>
「[韓流]ENHYPENとのコラボウェブ漫画がアニメ化 日本で初公開・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20251229000300882?section=entertainment-sports/index
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
なし。
<太田>
–納得–
「・・・ドーパミンが「何か良いことが近くにある」化学物質だとすれば、セロトニンは「何か良いことが実際に起こっている」化学物質である。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/0e564be384050ebcb93041aded8f08bd91cbe257
--映画評論531:銀河ヒッチハイク・ガイド--
今回の『銀河ヒッチハイク・ガイド」(The Hitchhiker’s Guide to the Galaxy)は、2005年の英米の「ブリティッシュ・ジョークを満載した・・・SF<映画>」だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%B2%B3%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89
が、空回りもいいところで、全然面白くなかった。
原作・脚本はダグラス・アダムズ(Douglas Adams。1952年~)は、ケンブリッジ大(英語文学)卒のイギリスの脚本家・SF作家で、「環境保護活動家で<あるほか、>・・・自身を「急進的無神論者」だとし、不可知論者ではないことを明らかにするために「急進的 (radical)」と付けていると述べていた」人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA
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太田述正コラム#15402(2025.12.29)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その21)>
→非公開