太田述正コラム#15232(2025.10.5)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その8)>(2025.12.30公開)

 「・・・明朝の財政経済は、・・・貨幣を介在させない現物でのやりとりで組み立てられた。・・・
 農業生産の復興をすすめるため、政府・権力・法制として、なるべく商業を忌避しようとした。
 通貨もごく限られた発行にとどめ、貨幣の代わりに金銀を使用することも禁じ、海外との貿易も厳しく統制したのである。・・・
 そこで各地では宋代以降、大量に蓄積、残存のあった銅銭を鋳直して流通させた。
 ・・・この私鋳銭で、日常的な少額取引をまかなうことにしたわけである。・・・
 もっとも、・・・私鋳銭はその範囲をこえた別の地域では、異質の、使えないニセ金となってしまう。
 だとすれば、・・・共通に価値の信認できる外貨的な貨幣が必要であり、そこで貴金属の銀を取引に用いるようになった。・・・
 いわゆる銀銭二貨制であり、この場合の銅銭を「現地通貨」といい、銀を「地域間決済通貨」と称する。
 そしてもともと現物主義で、そのコンセプトを最後まで崩すことがなかったはずの明朝の政府財政も、実際には早くから銀建てとなっていった。・・・
 かくて、なしくずし的な租税・徭役の銀納化や一条鞭法の施行などが必然化した。・・・
 こうしてできた中国の政治社会構造を、清朝は引き継いだ。
 自らの非力を知悉する清朝政権が、まさか不用意に介入したり、手を加えたりして、混乱をひきおこす愚は犯さない。
 清朝の「因俗而治」は、社会経済でも一貫していた。
 現代でいえば、私法・民法・商法の領域に、公権力がほとんど容喙、干渉しなかった恰好である。・・・

⇒私の言うところの、緩治の漢人文明が、清に至って、極限にまで達した、と、見ればいいでしょうね。(太田)

 <さすがに、この>清朝<も>、政府鋳造の銅銭を発行した・・・<けれど、>その銅銭は国家が管理する通貨とはなりえず、おおむね各地在来の私鋳銭に代替したにすぎなかった。・・・
 <乾隆帝時代の>好況の持続と拡大は、個々人すべての富裕化を必ずしももたらさなかった。
 というのも、この時期、爆発的に人口が増加したからである。・・・
 当時の漢人にも、・・・マルサス<と>・・・同じ趣旨をとなえた洪亮吉<(注13)>(こうりょうきつ)(1746~1809)という人物がいる。・・・

 (注13)「江蘇省陽湖の人。乾隆55年(1790)の進士。皇曾孫の侍読をつとめたが,1799年(嘉慶4)時政を論じた上書で新疆イリ(伊犂)に流され,100日後,許され帰郷してから更生居士と号した。経学,史学,ことに地理学にくわしく,名勝志,遊記を多数書き,府県志を多く編纂している。若くして詩人の名があり,散文および駢文(べんぶん)作家としても知られる。《洪北江詩文集》66巻がある。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%AA%E4%BA%AE%E5%90%89-63393

 <「>は以前の10倍に増えたが、田地は増えていないし、商人も10倍に増えたが、貨物が増えたわけではない。……これでは年中つとめても、生涯余裕なく、品行が正しくとも野垂れ死し、悪ければ掠奪に走りかねない。<」>・・・
 もちろん「10倍」は正確な数値ではないし、マルサスほどの理論にもなっていない<が・・>。」(85~90、92)

⇒緩治の極限なのですから、個人個人の把握などハナから放棄していたと思われ、だからこそ、官僚が、こんなアバウトな数字で議論をせざるを得なかった、ということなのでしょう。(太田)

(続く)