太田述正コラム#15236(2025.10.7)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その10)>(2026.1.1公開)

 「・・・人口は4倍になっても、公式の官僚制はほぼかわらない規模のままだった。
 たとえば財政収支は、ほぼ同じ額で推移したし、インフレだったことを考慮に入れれば、むしろスケールは縮小したといってよい。
 それでも、目だった支障がなかったのは、行政がもともと民間の社会・経済にあまり関わっていないからである。
 では民間に関わる政務は何かといえば、主に税金の徴収と犯罪の処罰であって、それぞれ「銭穀」「刑名」といった。
 それも実務は、おおむねコミュニティのごく少数の顔役、つまり郷紳や紳董<(注15)>(しんとう)に請け負わせていた。

 (注15)A collective term for gentleman and director. Generally refers to people with status, fame and influence in the local area.
https://www.newton.com.tw/wiki/%E7%B4%B3%E8%91%A3 Google翻訳で簡→英

 いわゆる「包」「包攬<(注16)>(ほうらん)」である。

 (注16)「納税者は担当の税吏に袖の下を贈るなど,非合法な出費が多く,一方わずかな納税のために県庁まで出向くのが煩雑とされる場合もあり,半職業的に納税代行を行う者があった。これを包攬(ほうらん)という。明末から清代にかけて,租税は納税者の直接納入がたてまえとされたが,それとともに政府のたびかさなる禁令にもかかわらず,包攬が盛行した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%85%E6%94%AC-1414775

⇒「注16」を踏まえれば、政府が「請け負わせていた」という言い方は語弊がありそうです。(太田)

 当時の英語表現を借りれば、官僚制は「自己の保存(オウン・メインテナンス)」しか考えないウルトラ・チープ・ガバメント<(注17)>だった。・・・

 (注17)「cheap government<とは、>・・・国家権力を国防・警察などの必要最小限にとどめ、私人の経済活動の自由を最大限に保障するような政府。」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%A1%E3%83%BC%E3%81%B7%E3%81%8C%E3%81%B0%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A8-1564149

⇒「注17」を踏まえれば、ultra-cheap governmetとは、さしずめ、「国防・警察など」も不十分な必要最小限未満の政府のことなのでしょうが、いささか、岡本、舌足らずです。(太田)

 政府権力は・・・民間社会からすれば、無用どころか、有害な存在にほかならない。
 中間団体の代表者の郷紳・紳董を介した当局にひとまず服して、あえて反抗しなかっただけである。
 ところが18世紀も後半になれば、人口・移民の増加で、公権力の手の及ばない中間団体が増殖した。
 新来の移住民に既成社会は冷たく、迫害を加えがちなものである。
 そこに当局の眼は往々にして届かないし、たとえ届いても、有力者に荷担することが多い。
 移民がそれに不満を募らせ、反体制的に傾くのは、理の当然である。
 その結果、新開地では当局に反撥し、いわゆる「淫祠・邪教」を奉ずる秘密結社・宗教団体が、おびただしく生まれた。
 政権をふくめ敵対勢力が危害を加えると、武装して反抗し、しばしば多くな騒擾に発展する、というパターンが、19世紀以降くりかえされることになる。」(102~103)

⇒この岡本の説明の仕方では、清の19世紀以降のものと、同じく「「淫祠・邪教」<(注18)>を奉ずる秘密結社・宗教団体」が「武装して反抗し、・・・騒擾に発展」したところの、後漢末期の黄巾の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B7%BE%E3%81%AE%E4%B9%B1
や元末の紅巾の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E5%B7%BE%E3%81%AE%E4%B9%B1
との違いが分からないというものです。(太田)

 (注18)「国家権力ないし支配者によって,反体制的な傾向を持つとみなされた民間信仰,宗教のこと。淫祠はまた,淫祀ともいい,異端,左道と類似した言い方である。中国では,秦・漢時代において国家によって民間の祭祀が整理され,祭天の儀礼を頂点とする祭祀の典礼が整備された。これを祀典という。すでに《礼記(らいき)》曲礼では,祭るべきではないものを祭ることを淫祀と呼んでいるが,祀典が整備されてからは,国家の祀典に入っていないものを淫祀とみなすようになった。こうした祀典の整備,淫祀(淫祠)の観念の確立に,儒教による思想統一があずかって力があったことはいうまでもない。後漢の応劭(おうしよう)は《風俗通義》において,巻八に〈祀典〉,巻九に〈怪神〉を列挙し,怪神の項では,城陽景王祠,鮑君神などの淫祠を取り上げ,民間の祠廟信仰の様子を伝えている。淫祠のなかには,たとえば南朝の項羽神のように,広範な民衆の信仰を得たために,陳の時代には国家に享祀されたという場合もあるが,多くは国家や地方官の禁圧に遭い,盛衰を繰り返した。
 また南北朝・隋・唐時代には,仏教がしばしば邪教とみなされ,淫祠と同様,国家の禁圧の対象となることがあった。三武一宗の法難といわれる,北魏の太武帝,北周の武帝,唐の武宗,五代後周の世宗による廃仏事件がそれである。これらは国策の遂行上,あるいは国家による思想の統一に仏教が障害となるとしたもので,仏教教団に脱税を目的とした民衆が包含されていたことも見逃せない。宋以後は,たとえば《大明律集解附例》に見えるように,弥勒教,白蓮社,明尊教,白雲宗などが邪教とみなされた。これらの宗教は,仏教,道教,マニ教などが習合し,多くは結社を作って,民衆反乱の温床となった。またその中には宝巻と呼ばれる経典を作って自己の教義を流布しようとしたものもあ<った。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%B7%AB%E7%A5%A0%E9%82%AA%E6%95%99-1147308
 
(続く)