太田述正コラム#15238(2025.10.8)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その11)>(2026.1.2公開)
「・・・「新疆」の成立<(注19)>は清朝にとっては、とりもなおさず百年来最大の宿敵・脅威の消滅であった。
(注19)「ジュンガル・ハン国は、17世紀初頭に出現したチベット仏教の オイラト・モンゴル諸部族の連合国で、アジアにおける最後の大遊牧帝国であった。一部の学者は、1755年から1757年の清朝の征服中またはその後に、戦争と疫病<(天然痘)>の組み合わせにより、ジュンガルの人口の約80%、つまり約50万から80万人が死亡したと推定している。清朝政府は、ジュンガルの先住民を一掃した後、漢族、回族、ウイグル族、シベ族をジュンガルの国営農場に再定住させ、さらに満州旗人も移住させてこの地域の再定住を図った。・・・
『ジェノサイドおよび人道に対する罪に関する百科事典』は、ジュンガル族に対する乾隆帝の行為を、国連ジェノサイド犯罪の防止および処罰に関する条約の定義に基づくジェノサイドに分類している。・・・
乾隆帝は、漢民族だけが<支那>の臣民であり、漢民族の土地だけが中国の一部であるとする以前の考えを否定し、<支那>を多民族国家として再定義した。1755年に彼は「<支那>には非漢民族は<支那>の臣民になることはできず、彼らの土地は<支那>の領土に統合されないという見解(中夏)がある。これは我々の王朝の<支那>に対する認識ではなく、むしろ以前の漢、唐、宋、明の王朝の認識である」と述べた。
満州族の乾隆帝は、新疆は<支那>の一部ではなく征服すべきではないという漢人官僚の意見を否定し、<支那>は多民族国家であり漢人だけを指すのではないという見解を示した。漢人の新疆への移住は満州族の乾隆帝によって許可され、また、都市にモンゴル名に代わって<漢>語の名前を付け、この地域で官僚試験を実施した。彼は<支那>式の行政制度である県や県を実施し、清の支配を強化するために漢人の新疆への移住を促進した。
傅恒と彼の満州人官僚チーム、そして乾隆帝は『西域図志』に、新疆のイスラム教徒に儒教を広めるために国費で運営される学校を利用するという提案を記した。 皇帝は新疆の町や都市に儒教の名前を与えた。例えば、1760年にウルムチには「迪化」、その他の新疆の都市には昌吉、鳳清、福康、恵府、遂来といった名前が付けられた。」
https://jmedia.wiki/%25E3%2582%25B8%25E3%2583%25A5%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25AC%25E3%2583%25AB%25E8%2599%2590%25E6%25AE%25BA/Dzungar_genocide
⇒「注19」の、清によるジェノサイドにより、新疆地区の「地区」宗教は、モンゴル人のチベット仏教地区から回族・ウィグル人のイスラム教へと変えられた、というわけです。
そうであるとすると、新疆地区がイスラム教徒の国として独立する、などということは絵空事に他ならない、と、言ってよさそうです。(太田)
300年つづいた清朝の歴史の分水嶺をなすといってよい。
時期的にも18世紀の半ば、ちょうど真ん中の折り返し点にあたる。・・・
これで盤石と思ったのか、乾隆帝も自信満々だった。
そうした矜持を端的に示したのは、著名な「皇清の中夏」という言辞であろう。
「中夏」はすなわち「中華」、まったく同じと考えてよい。
漢・唐・宋・明の「中華」とは異なる、モンゴル・チベット・ジュンガルをも併せた、清朝独自の「中華」だという誇示だった。」(111)
⇒ネット上で「皇清の中夏」という言葉が登場するのは、この本の要約紹介
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=2c128aeb3cb6900ea649fb0b41d775a7fd22084cdecd43a8fa60e748a8976d56JmltdHM9MTc1OTg4MTYwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=14e97463-d0d3-67d4-0bbd-61bcd1a96641&psq=%e7%9a%87%e6%b8%85%e3%81%ae%e4%b8%ad%e5%a4%8f&u=a1aHR0cHM6Ly9zcGMuanN0LmdvLmpwL2NhZC9saXRlcmF0dXJlcy9kb3dubG9hZC8xMzE3OA
の中だけですし、「中夏」を清朝と結びつけているものは、皆無で、中夏=中国、とするもの
https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%AD%E5%A4%8F/3796531
だけしか見つけられませんでした。(太田)
(続く)