太田述正コラム#15240(2025.10.9)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その12)>(2026.1.3公開)
「・・・移住民が多かったのは、湖北・湖南・広西・四川などの山岳地帯である。
住民のなお少ない未開地に移住入植したかれらの間にひろまったのが白蓮教信仰であり、それを紐帯に移民は団結し、「秘密結社」ができた。
⇒「清代に入ったころには「白蓮教」という語彙は邪教としてのイメージが強く定着しており、清の行政府は信仰の内容に関わらず、取り締まるべき逸脱した民間宗教結社をまとめて白蓮教と呼んだ。この時代、宗教結社側が自ら「白蓮教」と名乗った例は一例もなく、白蓮教と呼ばれた団体にも白蓮教徒としての自己認識はなかった。邪教として弾圧されることにより白蓮教系宗教結社は秘密結社化し、1796年に勃発した嘉慶白蓮教徒の乱へとつながった。
清代の白蓮教系宗教結社には、長江中流域の民間宗教である八卦教や清茶門教を淵源とする共通の宗教観が見て取れる。根源的な存在である「無生老母」への信仰と、やがてくる「劫」と呼ばれる秩序の破局の際に老母から派遣される救済者によって、覚醒した信者だけが母のもとへ帰還できるという終末思想である。一般的に救済者は弥勒仏とされる場合が多いが、清茶門教系の経典『九連経』では阿弥陀仏になっている。救済者は聖痕を持った人間として地上に転生するとされ、白蓮教徒の乱の際には各団体がそれぞれの救済者を推戴していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99
ということを踏まえれば、岡本の叙述は正確さに欠けるようです。(太田)
なかんづく四川・湖北・陝西の境界が交わる地域で活動が活発だったのは、権力が浸透しにくかったからである。・・・
1796年、蜂起にいった・・・。
平定する<のに>・・・前後10年近くを費やさなければならなかった。
まず軍事的に、常備軍の八旗<(注20)>・緑営<(注21)>が役に立たなかったからである。・・・
(注20)「清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。
八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん・・・)と総称され、清の支配階層を構成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%97%97
(注21)「満洲人によって編成された八旗の補助的な組織として設置されたが、康熙年間の三藩の乱以降に大幅に増強され、弱体化が進んだ八旗に代わって清軍の主力を担うようになった。・・・
兵は世襲職であり、父が死ねば子が軍籍に編入され、漢人士官の指揮を受けた。緑営の大部分は明朝の制度の踏襲であ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E5%96%B6
⇒それ以前に、(これも、安易に「白蓮教」という言葉を使っていますが、)「乾隆年間には、それまで勢力を弱めていた白蓮教が次々と新教団を作るようになる。1774年、山東省で八卦の新教団が結成され、首領の王倫(中国語版)が反乱を起こした。また、四川省でも厳しい取り立てに抗議する反乱が起こり、鎮圧された後、信徒は白蓮教に吸収された。清朝は白蓮教の教主である劉松を捕らえて、流刑に処し、劉松の高弟である劉之協の逮捕令を出した。1794年に劉之協は捕らえられるが、護送中に脱走した。乾隆帝が劉之協の捕縛を命じて和珅(へシェン)の兄弟の和琳(ヘリェン)を白蓮教の鎮圧に送りこみ、全土で過酷な取調べが行われ、無関係の民衆多数が犠牲になり、加えてこれを良いことに官吏たちは捜査の名目で金銭の収奪などを行った。1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、ヘシェンが地位を利用して専横を開始した。これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年(嘉慶元年)に湖北省で王聡児・姚之富率いる白蓮教団の指導のもとに反乱を起こした。これを契機として陝西省・四川省でも反乱が起こり、更に河南省・甘粛省にも飛び火した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99%E5%BE%92%E3%81%AE%E4%B9%B1
という具合に、政府の側がこの乱の原因を作った面があることに岡本には触れて欲しかったところです。(太田)
そこで現地の住民に一種の自警団・義勇兵を結成させ、反乱軍に対抗できるようにした。
これを「団練<(注22)>」といい、また郷里の義勇兵という意味で「郷勇<(注23)>(きょうゆう)」ともいう。・・・
(注22)「主に郷紳ら・・・地方の有力者が盗賊等から郷鎮を自衛するために自発的に組織した民兵組織である。・・・
合州知州の龔景瀚が『堅壁清野並招撫議』を上奏し、団練郷勇を設置して、現地の郷紳に郷勇の訓練を任せ、保甲制度を清査し、堅壁清野(焦土戦術)を実施し、地方の自衛を図るべきと主張した。団練の運営資金はすべて民間から調達され、その管理は「練総」や「練長」といった指導者が担う仕組みであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E7%B7%B4
(注23)「郷勇の起源は清初めの郷兵・・・にある。雍正8年(1730年)、オルタイが雲南省の烏蒙の反乱を鎮圧した時、郷兵を召募しているが、すぐに解散させている。つまり常設の軍隊ではなかったのである。
その後の嘉慶年間の白蓮教徒の乱でも、郷勇は召募されている。地方有力者が郷鎮を盗賊等から自衛するために自発的に組織した武装集団の団練は、郷勇の有力な兵員の供給源となった。
咸豊2年(1852年)に曽国藩が創設した郷勇である湘勇は、後の湘軍に発展した。また咸豊11年(1861年)には李鴻章が後に淮軍となる郷勇を組織している。湘軍と淮軍は太平天国の乱と捻軍の反乱の鎮圧の主力となり、ついに清末には郷勇は陸軍に組み入れられるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%8B%87
こうして以後の漢人社会は良否・順逆を問わず、全般的に武装するのが常態となった。
治安の護持をはかった方策で、いよいよ治安が悪化していったわけである。」(120~123)
⇒この18世紀末の時点で、直ちに、皇帝サイドや漢人有識層の中から、19世紀末の変法自強運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E6%88%8C%E3%81%AE%E5%A4%89%E6%B3%95
の先駆的な(「注22」に出てくる龔景瀚によるもののような退嬰的なものではない、)問題提起が全く見られなかったのは、信じられないことです。(太田)
(続く)