太田述正コラム#15258(2025.10.18)
<清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その3)>(2026.1.12公開)
「・・・ヴェネツィア人が初めて税を納めることなくビザンチン帝国の諸港に出入りすることが認められたのが1082年であったことは広く知られている。
それから1世紀もたたないうちに、帝国の海上貿易の大部分はイタリア人の手に握られてしまったのであった。
ヴェネツィアはカール大帝の「西ローマ」帝国に編入されることがなく、法的にはビザンチン帝国の一員としてとどまっていた。<(注4)>
(注4)「697年 – 伝承では、<ヴェネツィアで>最初のドージェ<の>パオルッチョ・アナフェストが選出されたといわれる。726年 – 歴史的に確認されている最初のドージェ<の>オルソ・イパートが東ローマ帝国から承認される。803年 – パクス・ニケフォーリ(カール大帝とニケフォロス1世の間に結ばれた講和条約)により、ヴェネツィアが東ローマ帝国領でありつつも事実上独立していることが確認される。810年 – イタリア王ピピンの侵攻を撃退する。828年 – 福音記者マルコの遺体をアレクサンドリアから運び、守護聖人とする。991年 – バシレイオス2世から金印勅書を獲得し、東ローマ帝国内での免税特権を得る。11世紀初頭 – ダルマチアを征服し、アドリア海の制海権を確保する。11世紀 – アレクシオス1世コムネノスから金印勅書を獲得し、名目上も独立を果たす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
これが帝国内での商業活動に有利な条件として作用したことは確かであるが、それだけでは、ジュノヴァ、ピサなどイタリア西岸の都市をも含むイタリア商人の急速な勢力の増大を説明することはできない。
・・・W・H・マクニール<(注5)>・・・によれば、およそ1050年以後のイタリアでとくに利益が大きかった主要な理由は、利益のうち税金として支払われる部分、あるいは商人の保護の費用にあてられる部分が相対的に小さかったことである。
(注5)William Hardy McNeill(1917~2016年)。「バンクーバー生まれ<の米国の歴史学者。>・・・シカゴ大学<卒>・・・修士<、>・・・コーネル大学で博士号取得。その後は、・・・<概ね>シカゴ大学での教育著述にすべてを捧げた。・・・
マクニール歴史学のテーマは『西洋の台頭(The Rise of the West)』で、マクニールはさまざまな旧世界の文明の互いの影響、とりわけ1500年代以降に西洋文明が他の文明にもたらした劇的な影響という観点から世界史(文明史)を探索した。
マクニールは歴史理論に大きな影響をもたらし、オズワルド・シュペングラーの史観とは対照的な文化の融合を強調した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB
当時のイタリア商人たちは自ら防衛にあたる人びとであり、特別に外部の軍事専門家を多数雇い入れる必要を感じていなかった。
ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどで都市行政の衝にあたっている者は、いずれも商人ないし商人上がりであった。・・・
政治的リーダーと商人および船乗りを分つような意識の差は存在しなかったのである。・・・
11世紀末から12世紀にかけてノルマン王国が成立した南イタリアにおいて、アマルフィ(ナポリの南)、ガエタ(ローマとナポリの中間)、バリ(東海岸)などの都市とその海上商業が急速に衰退した理由の一つは、・・・王権による収奪にあるといえるだろう。・・・
北イタリアの商人たちは、ビザンチン、ノルマン王国、イスラム諸国の商人に対して、<前出の>レーンのいうところのプロテクション・レントを享受していたのである。」(11~13)
⇒例えば、ヴェネツィアの例で言えば、内陸に拡大しなかった一方で、カロリング帝国による吸収も免れることに成功し、要は、商業/海軍拠点だけというスリムな体制が維持されることになったからこそ、プロテクション・レントの享受が可能になったわけですが、このあたりの事情について、もう少し詳しく知りたいところです。(太田)
(続く)