太田述正コラム#15262(2025.10.20)
<清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その4)>(2026.1.14公開)

 「・・・商業活動と海賊活動の境界は、はなはな微妙なものなのである。
 とくに、ビザンチンの勢力下にあった東地中海で比較的安定した商業活動を展開しえたヴェネツィアはともかく、コルシカ、サルディニヤ、バレアレス諸島(マヨルカ島、ミノルカ島など)のイスラム勢力との対決の中で商業圏を拡大したジェノヴァ、ピサ、バルセロナなどの商人は、まさに「海の狼」であった。・・・
 海賊は、商船を拿捕すると、高価な代償金や身代金を要求する。
 それが払えなければ、商品は海賊が根拠地としている港に運ばれてしまうし、人間は奴隷にされたり、海に突き落とされてしまう。・・・
 アンジュー家のシャルル2世<(注7)>・・・が有名な1282年の「シチリアの晩鐘」<(注6)>事件の後、アラゴンのペドロ2世の船隊と戦い捕虜となったこと、さらに、末娘ベアトリーチェを多額の金と引きかえにエステ家のアッツォ8世に嫁がせ<ているが、これを、>・・・ベアトリーチェ<が>あたかも海賊が商品である女奴隷の値段をつり上げるように、父親によって取引の材料にされた<、と、>・・・ダンテは『神曲』・・・において、・・・皮肉った<。>」(13~14、26~27)

 (注6)「シチリアの晩祷(・・・伊:Vespri siciliani)は、1282年にシチリアで起こった住民暴動と虐殺事件。・・・シチリアの夕べの祈りとも。・・・
 当時シチリア王国は、ホーエンシュタウフェン家を断絶させたフランス王族であるアンジュー家のシャルル・ダンジューが支配しており、イタリア系の住民の間には不満が鬱積していた。また、この時期にシャルル・ダンジューは姻戚関係から滅亡したかつてのラテン帝国の相続権を主張、ローマ教皇とも組んで東ローマ帝国の征服を計画しており住民から強引な食料や家畜の調達などを行い、これが住民の反発を更に強めたと言われる。
 1282年3月30日に、アンジュー家の兵の一団がパレルモでシチリア住民の女性に暴行したことに怒った住民が暴徒化した。忽ちのうちに暴動はシチリア全土に拡大し、4000人ものフランス系の住民が虐殺された。また、東ローマ遠征用の艦艇も多数が破壊されたと言われる。この反乱によりシャルルが準備していた遠征計画は大きく狂った。
 事件の発生した3月30日は復活祭の翌日に当たる月曜であり、教会の前には大勢の市民が晩祷(夕刻の祈り)を行うため集まっていた。彼らが暴動を開始したとき、晩祷を告げる鐘が鳴ったことから「シチリアの晩祷(晩鐘)」と称されるようになった。
 シャルルと親しかったローマ教皇マルティヌス4世は、十字軍の作戦を妨害したとして全島民を破門にするという措置を取った。やがてシャルル側も反撃に出て暴動の鎮圧も時間の問題と思われたが、8月、突如アラゴン王国のペドロ3世(シャルルが敗死させたシチリア王マンフレーディの娘婿)がシチリアに上陸。シャルルの軍勢を破り、シチリアの王位に即位した。このシチリア晩祷戦争以後、シチリア王国はペドロ3世のシチリアとシャルルのナポリ王国に分裂していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%99%A9%E7%A5%B7
 「シチリア晩祷戦争は、1282年のシャルル・ダンジューに対する「シチリアの晩祷」に始まり、1302年のカルタベッロッタの和平で終わった中世ヨーロッパの戦争。争いは、ローマ教皇より支援を受けたアンジュー家の王位請求者であるシャルル・ダンジューとその息子シャルル2世、フランスのフィリップ3世大胆王並びにその関係者と、ペドロ3世大王をはじめとするアラゴン王家(バルセロナ家)との間で、シチリア、カタルーニャ(アラゴン十字軍)並びに地中海を舞台にして繰り広げられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%99%A9%E7%A5%B7%E6%88%A6%E4%BA%89
 (注7)カルロ2世(Carlo II d’Angiò。1254~1309年)は、ナポリ王(在位:1285年 – 1309年)、シチリア王(名目上)、プロヴァンス伯、アンジュー伯、アカイア公。
 「1288年、シチリアを完全放棄するという条件で釈放され、既に没していた父の跡を継いでナポリ王として即位する。しかし父以来の宿願であるシチリア奪還を諦めず、1289年には巧みな政治工作でローマ教皇ニコラウス4世からシチリア王として戴冠を受けた。また、妃であるハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアとの間の長男カルロ・マルテッロを神聖ローマ皇帝ルドルフ1世の娘クレメンツィアと結婚させた上、ハンガリー摂政を名乗らせて同国の王位継承争いに介入した(カルロ・マルテッロは1295年に23歳で死去したが、後にその息子のカルロ・ロベルトがハンガリー王カーロイ1世となる)。
 こうした情勢を背景にして、ペドロ3世の三男のシチリア王フェデリーコ2世と戦ったが、シチリアを奪還することはできず、1295年に次女ビアンカをアラゴン王ハイメ2世(ペドロ3世の次男でフェデリーコ2世の兄、当時シチリア王を兼ねた)と、1297年に三男ロベルトをフェデリーコ2世の妹ビオランテと、1302年に三女エレオノーラをフェデリーコ2世とそれぞれ結婚させ、アラゴン家との和平を図っている。・・・
 <なお、末娘の>ベアトリーチェ(1295年 – 1321年)<を>- 1305年4月にフェラーラ侯アッツォ8世・デステと結婚<させ>、1309年にアンドリア伯ベルトランド3世・デル・バルツォと再婚<させている>。」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD2%E4%B8%96_(%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AA%E7%8E%8B)

⇒南イタリアは、シチリアを827年から11世紀後半まで支配したアラブ人(イスラム教徒)をノルマン人が駆逐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%A2
して以来、ゲルマン系王室が支配を続けることになったという経緯があります。
 北イタリアのイタリア人、や、当時まだ健在だった東ローマ(ビザンツ)帝国、のアカンタレ、と、言いたくなります。(太田)

(続く)