太田述正コラム#15282(2025.10.30)
<清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その9)>(2026.1.24公開)

 「・・・ジェノヴァの帆船は、14世紀末には載貨重量(いわゆる重量トン)950トンにものぼる大型船となり、時には一千トンを越すものも現れるようになった。・・・
 これらに100人から130人にものぼる船員が乗組んで、東地中海からイングランドにいたる遠洋航海を行ったのである。
 一方、プロヴァンスやシチリアなどを往復する船は、大体、240トン前後であった。・・・
 <他方、>ヴェネツィアの大型ガレー商戦(乗組員約200名)の載貨重量は、およそ200トンと推定されている。・・・
 大型帆船は船足も遅く、いざとなるとオールに頼ることのできるガレー商戦のような機動性をもっていない。
 また、接岸できる港も限られている。
 しかし、大量輸送が可能であるという絶対の利点を持っている。
 このような船の性格に適合的なのは、比較的価格が低く、しかも量の大きい商品である。
 もとより、香料のような高価かつ少量の奢侈品ではない。
 それは、穀物であり、塩であり、なかんずく明礬<(注15)>であった。・・・

 (注15)[alum]。「カリウム・アンモニウム・ナトリウムなどの一価イオンの硫酸塩と、アルミニウム・クロム・鉄などの三価イオンの硫酸塩とが化合した複塩の総称。硫酸カリウムと硫酸アルミニウムとが化合したカリ明礬KAl(SO4)2・12H2Oが古くから知られ、これをさすことが多い。いずれも正八面体の結晶をつくり、水に溶ける。媒染剤・皮なめし・製紙や浄水場の沈殿剤など用途が広い。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E7%A4%AC-640276
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%90%E3%83%B3 ([]内)

 明礬・・・は、中世における唯一の大規模工業ともいうべき毛織物工業に欠くことのできないものであった。
 それは、まず、原毛を洗う際の脱脂剤として用いられるが、とくに重要なのは、いうまでもなく媒染剤としての利用である。
 それによって得られる色の鮮かさと独特の光沢は、他に求めることのできないものであったといわれている。
 しかも、明礬は、中世のヨーロッパではほとんど算出していなかった。
 したがって、外部、とくにオリエントからの輸入にまたねばならなかったのである。・・・
 ジェノヴァの明礬貿易の歴史は、キオス島における植民地経営の歴史と結びついている。・・・
 単純化すれば、ジェノヴァの大型帆船は、地中海からイングランド、フランドルへ明礬を運び、イングランド産毛織物<(注16)>を持ちかえるという特殊化した活動を行っていたといえるだろう。・・・

 (注16)「毛織物は17世紀後半に綿織物が普及するまで<欧州>の基本となる衣類であったので、各地に毛織物業が起こった。中世においてはイギリス、スペイン産の羊毛を原料にして北イタリアとフランドル地方が二大産地であった。この原料生産地と毛織物産地との間で活発な羊毛貿易がおこなわれ<た。>・・・
 イギリス(イングランド)は11世紀ごろから荘園農村での羊毛生産が増えてきた。特に12世紀に大陸から渡ってきたシトー派の修道士が牧羊をひろめたという。12世紀ごろからは北部や北西部(ウェールズ)からより質のよい羊毛が生産されるようになったが、いずれもドーヴァー海峡を越えてフランドル地方に輸出され、その地の毛織物産業の原料とされていた。羊毛の大陸への輸出と毛織物の輸入という遠隔地取引は商業を活発にして、羊毛の集積地に都市が形成されるようになった。当初はイギリスでは高度な毛織物の技術がなく、原料供給だけにとどまっていたが、商業資本が蓄積されると、その資本によってイギリスでも毛織物業が始まり、フランドルと競合するようになった。そのような中でフランス王の臣下の立場にあるフランドル伯がイギリス商人に圧力をかけてきたこともあって、フランドル地方を征服して毛織物業をイギリスの支配下におこうという要求が起こってきた。それが百年戦争の要因の一つとなった。その初期にカレーを占領したイギリスのエドワード3世は、1363年にカレーを輸出羊毛指定市場として商人組合に羊毛輸出の独占権を与え、関税を徴収した。・・・
 このように中世イギリスにとって羊毛は最も重要な産物(ステープル)とされていた。結局フランドル地方を獲得することができなかったこともあって、次第にイギリス国内での毛織物製造業の需要が高まり、14世紀後半から15世紀にかけて、毛織物産業はイギリスの国民的産業にまで成長し、ヨークシャーなどの都市から農村のマニュファクチュア(工場制手工業)にまで広がっていった。このような国内毛織物産業の増大は、原料の羊毛の需要を高め、15世紀半ばから荘園領主は農村の共有地などを囲い込んで牧場にして羊を飼うという第1次囲い込み運動(エンクロージャ)が始まり、それは16世紀に急速に進んでトマス=モアの言う「羊が人間を食べている」といわれる状況となった。16世紀後半、テューダー朝・エリザベス1世の絶対王政における重商主義政策のもとで毛織物産業が保護され、毛織物はイギリスの最も重要な産物となった。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0904-066.html

⇒「注16」から、毛織物産業の北イタリアでの没落とイギリスでの隆盛が、一人当たりGDPの伊英逆転をもたらした、と、言えそうですが、どうして北イタリアで没落したか、は、今後の検討課題です。(太田)

 このようなパターンの明礬貿易は、しかしながら、永くは続かなかった。
 最大の明礬鉱のあるフォケーアが、1455年にトルコ人によって占領されたのである。・・・
 しかし、1462年・・・、ローマ教皇領のトルファ(チヴィタヴェッキアの近く)で明礬鉱が発見されたのである。
 この資源の独占をめぐって、ジェノヴァはメディチ家と激しい構想をくりひろげた。
 そして、メディチが独占を果した1466年から78年までと、1485年から88年までの二つの時期を除いて、ジェノヴァがトルファの明礬を掌握することになった。・・・
 <すなわち、>ジェノヴァおよびフランドル・イングランドを結ぶ貿易路が成立し、北アフリカ、イベリア半島との商業関係も以前にもまして緊密となった。」(44~45、50~51)

⇒仮説の一つとして、北イタリア域内の武力抗争が毛織物産業を含む産業や商業の発達を促したが、中長期的には、域内抗争を克服したイギリスが、他国との戦争を断続的に継続しつつ、大きな国内市場と統一的国策の下、北イタリアを産業や商業において追い抜いた、と、いったものが考えられますね。(太田)

(続く)