太田述正コラム#15292(2025.11.4)
<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』を読む(その11)>(2026.1.29公開)
「・・・In・・・King of East Anglia<(注17)’s>・・・Rædwald’s case they decided to dig a giant trench, into which they dragged a ship, twenty-seven metres in length.
(注17)「イースト・アングリア王国はブリテン島東部、現在のノーフォーク州とサフォーク州を併せた領域に六世紀から九世紀にかけて存在した七王国時代のアングル人の王国である。ベーダ「アングル人の教会史」他複数の記録によると、ウォーデン(北欧神話の主神オーディン)の末裔ウェッハ(Wehha)がイースト・アングリア王国の最初の王であったといい、二代目とされるウッファ(Wuffa)王の名にちなみ、イースト・アングリアの王のことはウッフィンガス(Wuffingas)と呼ばれていたという。ここからイースト・アングリア王国の初期王朝はウッフィンガス朝(六世紀-749年)と呼ばれる。
六世紀頃、イースト・アングリア王国の南、ドーヴァー海峡を望むブリテン島の東南端ケント地方に興ったケント王国がフランク王国など大陸との交易で栄え、ブリテン島のアングロ・サクソン諸国の中でいち早くキリスト教に改宗したエセルベルフト王(Æthelberht , 在位580頃-616年)の時代に強盛となった。
⇒ケントの繁栄が欧州大陸との交易で栄えたことがようやく判明した。
その背景には、アングロサクソンが、船を操ることが巧みな人々であって、だからこそ、大ブリテン島南東部に侵攻、占拠ができたことがあると思われる。(太田)
ベーダはエセルベルフト王をブレトワルダの一人に数えている。イースト・アングリア王国も従属国の一つとしてエセルベルフト王の覇権に従っていた。
ベーダによると、レドワルド王はイースト・アングリア王国第二代国王ウッファの子チュテル王を父とし、ウッフィンガス朝四代目のイースト・アングリア王であるという。誕生から即位後にかけての早い時期のことは不明だが、ケント王エセルベルフトに従属する立場であった。治世初期、ケント王エセルベルフトの勧めでケント王国でキリスト教の洗礼を受けたが、帰国後は家臣や王妃の反対にあい早々に妥協の道を選んだ。神殿にはキリスト教の祭壇と古くからの北欧の神々のための祭壇が併存していたという。これは教皇グレゴリウス1世が派遣したアウグスティヌスら宣教団がケント王国に到着した597年から、エセルベルフト王によってカンタベリー大司教に任じられたアウグスティヌスが亡くなる604年までの間に起きたことと見られている。
⇒土俗信仰とキリスト教の並存の背景には、ブリトン人由来の自然宗教的/ペラギウス主義的キリスト教にアングロサクソンも影響を受けていたから、というのが私の仮説だ。(太田)
616年、臣従していたケント王エセルベルフトが亡くなり、レドワルド王は大きなターニングポイントを迎える。契機となったのはイングランド北部ノーサンブリア地方の動乱である。ハンバー川の北側に広がるノーサンブリア地方にはバンバラを中心とするバーニシア王国とヨークを中心とするデイラ王国の2つのアングロ・サクソン系王国があったが、604年、バーニシア王エセルフリス(Æthelfrith,在位593-616/617年)がデイラ王国を征服した。故国を追われたデイラの王子エドウィンは各地を放浪の後、616年頃までにイースト・アングリア王国に亡命、保護を求めた。
エドウィンがレドワルド王の下にいると知ったエセルフリス王は金銭を贈ってエドウィンの殺害を依頼するがレドワルド王はこれを拒否する。エセルフリス王は繰り返し使者を贈って報奨金の増額を提示するとともに、要請を拒否するならば一戦も辞さずと脅迫してきたため、恐れたレドワルド王はエドウィン殺害か引き渡しのいずれかを約束してしまう。これをレドワルド王の従士である親しい友人から聞いたエドウィンは、レドワルド王の恩義を理由に友人からの逃亡の薦めを固辞したものの苦悩していた。この名前が知れないエドウィンの友人はレドワルド王の意向を王妃に伝え、これ聞いた王妃はレドワルド王を説得する。
「王妃は最良の友人が苦境にあるそのときに、金銭で売り、あらゆる財宝よりも尊い名誉を貪欲と金銭欲のために犠牲にすることは、かくも高貴で、かくも卓越した王にふさわしいことではありませんと戒め、王の邪な目的を撤回させたのです。」
616年または617年、エセルフリス王の使者が帰国するや否や、レドワルド王は迅速に軍を招集して進撃を開始、虚を突かれたエセルフリスは十分に兵を集められないまま迎撃せざるを得ず、マーシアとノーサンブリアの境界となるイングランド中部ノッティンガムシャーを流れるアイドル川の東、現在レトフォード(Retford)と呼ばれる町の近郊で両軍が激突した。十二世紀の歴史家ハンティンドンのヘンリによるとレドワルド王率いるイースト・アングリア軍は3つの部隊で構成され、そのうち一つはレドワルド王の王子レガンヘレ(Rægenhere)が指揮していた。対するエセルフリス王自ら率いる熟練兵で構成された少数精鋭のバーニシア軍はレガンヘレ部隊へ兵力を集中させて撃破、レガンヘレを戦死させるが、レドワルド王は動揺せず態勢を立て直してバーニシア軍を殲滅、エセルフリスは激しく勇戦するが自軍からはぐれ孤立したところを狙われて戦死、イースト・アングリア軍の勝利に終わった。「アイドル川はイングランド人の血で染まった”the river Idle was stained with English blood”」と語り継がれるほどの激しい戦いとなった。
この戦いの勝利の結果、レドワルド王は大きく名声を高め、イースト・アングリア王国はケント王国の従属国の立場から自立、ブレトワルダとしてブリテン島に覇権を確立した。また、故国へ戻ったエドウィンを引き続き支援して、レドワルド王の後ろ盾を得たエドウィンはノーサンブリア地方を統一する。レドワルド王の勝利は群雄割拠の七王国時代を形成する契機となった。
レドワルド王治世下と思われる七世紀初頭、アングロ・サクソン人による都市としては最古の一つ当時はGippeswicの名で呼ばれたイプスウィッチ(Ipswich)が交易都市として誕生する。イプスウィッチ港へ大陸からの大量の輸入品が運び込まれてイースト・アングリア王国の繁栄を支えた。この頃の繁栄を示すのがイプスウィッチにほど近いサットン・フーの船葬墓である。七世紀前半頃に作られた櫂船型の墓で全長二十九メートル、最大幅四・二五メートルに及び、金で装飾された剣や盾、銀をはめ込んだフルフェイスの兜といった副葬品など多数の出土品が発見され、フランク王国やスカンディナヴィア半島、地中海地域など広く交流があったことが判明している。遺骨は発見されていないが、レドワルド王のものとする説が最有力<だ。>」
https://call-of-history.com/raedwald_king_of_east_anglia/
At its centre, in a specially built chamber, they placed their dead king, surrounded by all his finery. They then covered the entire assemblage with soil, raising a mound thirty metres across and perhaps five metres high.
The ship burial at Sutton Hoo, discovered thirteen centuries later in 1939・・・
It was the largest ship ever excavated in Europe that pre-dates the viking era, but not the only one discovered at Sutton Hoo.
⇒ヴァイキング時代より前の欧州・・ということはギリシャ/ローマ時代を含め・・で、発掘された中では最大の船というのですから、イースト・アングリア、ひいてはアングロサクソン時代の彼らの豊かさは大変なものであった可能性が高いというものです。
これは、大ブリテン島が(牧畜を含む)農業にいかに向いた場所であったかを、改めて示唆しているのではないでしょうか。(太田)
Another mound on the site, sadly robbed of its treasures, was identified in 1998 as a more conventional chamber burial that had been sealed by having a ship placed on top of it – a somewhat smaller vessel measuring twenty metres. If this burial predated the larger and more famous one, it might perhaps have been the tomb of Rædwald’s son, Rægenhere<(注17)>, who was killed fighting alongside his father at the Battle of the River Idle. Either way, the practice of using ships to bury the dead was virtually unparalleled in Britain, but was a fairly common practice in Sweden, suggesting that the Wuffings had ancestral connections to that region that they were keen to advertise. It is probably going too far to suggest on the basis of these connections that they were the descendants of Beowulf<(注18)>, and responsible for the transmission of his legendary tale.
(注18)アングロサクソン主要諸族中のジュート人の故地はデンマークだが、その対岸(の現在のスウェーデンの西部海岸)にいたのがイェーアト人(Geats)だ。
ベーオウルフはイェーアト人、という設定だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95
⇒『ベーオウルフ』はアングロサクソンが生み出した叙事詩であるところ、それが、イースト・アングリアで形成されたのは、その王家の有力な祖先がイェーアト人だったからだ(注19)、とすれば、話の辻褄があるというものです。(太田)
(注19)The Anglo-Saxon settlement of Britain included many North Germanic people who were losers in the brutal tribal warfare of Scandinavia. The place-name -gate marks the site of Geatish settlement, often alongside strategically important Roman roads and nearby Visigothic and/or Jutish settlements. Defeated Jutes like Hengest and his brother Horsa fled to Kent, while Geats defeated by encroaching Swedes moved to Yorkshire where they founded Gillingshire by the Tees, originally the settlement of the Geatlings. It has also been suggested that East Anglia was settled by Geats at this time, or by Wulfings who also came from Götaland, bringing the traditions of Beowulf with them.
Any peace that eventually settled in southern Scandinavia was most likely due to exhaustion, and a Danish archaeologist has summarized that in the mid-6th century, and after, Scandinavia “went down to hell”. Scandinavian wares appear to have stopped arriving in England, c. 550, suggesting that contact was broken.
https://en.wikipedia.org/wiki/Geats
But the parallels between Sutton Hoo and the famous poem certainly resonate. Although Beowulf himself was burned on a funeral pyre, his remains were interred under a mound ‘that sailors could see from afar’, and the same must have been true of the mounds that rose beside the Deben at Sutton Hoo. Stronger still are the echoes from the start of the poem, when the dying King Scyld, founding father of the Danish royal house, insists on travelling to the next world by being borne across the sea.」(64~67)
⇒発掘されたのはわずか2例に過ぎないけれど、イェーアト人たる王族の船葬が少なくともイースト・アングリアで行われた、ということに加え、同じイェーアト人がノーサンブリアの大宗を占めるヨークシャー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
にも定着した(「注19」)、というのですから、アングロサクソン全体が、ヴァイキング的な人々であったこと、したがって、(ローマ帝国に積極的に侵攻したとは言い難い)欧州大陸の狭義のゲルマン人よりも弥生性において凌駕していたとしても決して不思議ではないこと、を示唆している、と、私は見るに至っています。(太田)
(続く)