太田述正コラム#15314(2025.11.15)
<清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その17)>(2026.2.9公開)
「・・・<もう一例ですが、>大塚<久雄>先生と星野秀利<(注27)>さんとが一緒に書かれました・・・1958年<の>・・・「イタリア・ルネサンスの社会的基盤」<は、>・・・もっぱらフィレンツェを対象としたものでありますが、その社会のヒエラルキー的な構造を取り上げておられます。
(注27)1929~1991年。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%98%9F%E9%87%8E%E7%A7%80%E5%88%A9_000000000895677/biography/
著書:「中世後期フィレンツェ毛織物工業史 著:星野 秀利 訳:齊藤 寛海 出版社:名古屋大学出版会 税込価格:¥11,000 発行日:2022年04月30日」
https://www.ehonnavi.net/author.asp?n=90459
つまり13世紀から14世紀におけるフィレンツェの繁栄を支えた毛織物工業のあり方がきわめて問屋制的な構造を持っており、都市貴族層の一方的な流通支配のもとに、完全に包摂された状況におかれていたが故に、一般商人層の自立化という契機が非常に乏しい、という議論がなされております。
また同様に、イタリアでは都市が農村を支配するという「都市国家」の構造をとっておりますから、市民層、特に有力な市民層の利害のもとに農村が「地主制的」に支配されるという構造を持つ。
したがって「農民的」な富の蓄積が非常に困難な状況が形成され、このことが逆にイタリア都市の、北ヨーロッパとは非常に違った基本的な構造を造り出すのみならず、市民のあり方において、存在形態あるいはメンタリティーの面において大きな違いをもたらす、こういうふうな説明がなされております。
そしてこの論文は、最後にメディチ家の支配のあり方を論じまして、流通過程における巨大商人であるメディチがいかに都市を支配するかのみならず、文化のパトロンになったかという問題を取り上げ、周知の通りこのような状況に対して生じてくる「宗教改革」のきっかけをなしたルターの「95ヵ条」が、ほかならぬメディチ家出身のレオ10世<(注28)>に対してつきつけられたものである<(注29)>ことを指摘して終わるのであります。」(141~142)
(注28)1475~1521年。教皇:1513~1521年。「フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチ<(Lorenzo de’ Medici。1449~1492年)>の次男。父と教皇インノケンティウス8世の後押しにより1492年、16歳で枢機卿となる。同年ロレンツォの死去後、メディチ家の権勢は衰え、1494年に兄のピエロ、弟のジュリアーノと共にフィレンツェを追放される。追放中はイタリア各地を転々としたのち、ローマに落ち着く。1503年の兄の死後、ユリウス2世の支持の元、1512年スペイン軍と共にフィレンツェに侵攻。メディチ家の復権を果たしている(教皇選出後はフィレンツェを親族に任せ、間接的に統治した)。
1513年、ユリウス2世の死後、37歳で<教皇に>即位する(「最年少にして、最も醜男の教皇」と呼ばれた)。・・・
1515年、フランス国王フランソワ1世がミラノに侵攻する状況になると、フランスと妥協し、ボローニャ協定を結ぶ。1519年、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の死後に行われた皇帝選挙では、マクシミリアン1世の孫、カール5世の即位を阻むため、フランソワ1世を支援するが失敗。カール5世が皇帝に選出されるが、マルティン・ルターの宗教改革に対抗する必要上、秘かにカール5世と同盟を結んだ。・・・
メディチ家の勢力拡大を図り、1513年からフィレンツェを任せていたジュリアーノが死去した1516年に後を継いだ甥(ピエロの遺児)のロレンツォをウルビーノ公に指名、本来のウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世を追放したが、ロレンツォは1519年に一人娘カテリーナを残して急死、フランチェスコ・マリーア1世が復帰して領土拡大に失敗した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA10%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
(注29)「1517年にサン・ピエトロ大聖堂建設資金のためにドイツでの贖宥状(俗に言う「免罪符」)販売を認めたことが、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった(レオ10世による贖宥状)。また、行列や宴会など、とにかく贅沢が好きで湯水のように浪費を続けた。享楽に満ちた聖都ローマは、ルターに「新しきバビロン」と非難された。教皇庁には未曾有の財政破綻が起こり、「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした。先代ユリウス2世の蓄えた財産と、レオ10世自身の収入と、次の教皇の分の3人分を」とも言われた。
1521年10月11日、ルターを非難した<イギリス>王ヘンリー8世に「信仰の擁護者」の称号を授けたが、後にヘンリー8世は離婚問題で教皇クレメンス7世と対立した果てに<英>国教会を創設、皮肉にもプロテスタントの一派を形成していった。」(上掲)
⇒「1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチ<(Cosimo de’ Medici。1389~1464年)>は貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。 1439年、フィレンツェ公会議。1464年のコジモの死後は、その子ピエロにその権力を継承した。
孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7
Cosimo traditionally has been accused of destroying Florentine liberties; but these ancient liberties, more of an illusion than a reality, had already ceased to exist in the Florence of the Albizzi. Cosimo only had to perpetuate the formula of those he was evicting, in other words, to maintain the appearance of a constitutional regime. But, in order not to be taken by surprise like the Albizzi, he perfected the system. He made no changes in the law’s actual administration, but in the spirit of the law he changed everything.
https://www.britannica.com/biography/Cosimo-de-Medici
というのですから、「一般商人層の自立化」どころか、「一般民衆の自立化」によって共和制フィレンツェで民主主義が機能し、ファシスト的メディチ「王朝」が始まることになった、と言ってよいのであって、問題は、15~16世紀にかけてのこのファシスト的メディチの歴代「王」達が、誰一人として、全イタリアとは言わないまでも、全北イタリア統一のために、フィレンツェの経済、文化、軍事力を総結集してあたろうとしなかったことです。
すなわち、この「王朝」の創始者のコジモ・デ・メディチ(1389~1464年)が、その1世紀余前の同じフィレンツェ人のダンテ・アリギエーリ(1265~1321年)のイタリア統一の志を継がなかったことです。
私見では、これを行わなかったことが17世紀央での大分岐・・イギリスの一人当たりGDPのイタリア、ひいてはその他の全世界、のそれの凌駕・・を必然たらしめたのです。(太田)
(続く)