太田述正コラム#15316(2025.11.16)
<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』を読む(その17)>(2026.2.10公開)

 「It is clear that one of the main proponents of Alfred’s greatness was the king himself. Born in 848, or perhaps a year either side of that date, Alfred was the last of the five sons of King Æthelwulf<(注31)> of Wessex, but determined to convince others that he was not the least.

 (注31)エゼルウルフ(?~858年)。「従属国をもつ王国は、王が本国を統治し、息子や腹心を下王に任じて従属国を統治させた。王といえども従属国内にひとたび入ると、下王の命令に従わなければならなかった。たとえばエゼルウルフがケント下王だったとき、エグバートはケントにいる時は息子エゼルウルフの命を仰いだ。ウェセックス王に即位したエゼルウルフは、この方式を改めて集権化につとめた。従属国の貴族に直接金品を下賜したり、本国・従属国全体で使われる硬貨はエゼルウルフの肖像を刻印したのは、王はあくまでウェセックスのエゼルウルフであると印象づけるためだった。下王はそれまで、自分の名で令状を出したり、従属国内では自分の貨幣を流通させていたが、エゼルウルフ時代にはこれがみられなくなっていた。
 土地政策でもエゼルウルフ時代には、その所有形態に変化がみられた。従来の土地所有は土地税がかかるうえに、複数の子に分けるときなどに分割できない制度になっていた。新しく出て来ていた勅許保有地は、王がひとたび勅許を出せば、その後売買・譲渡などが自由にできたうえ、税もかからなかった。エゼルウルフは勅許保有地への転換をいっきょに進めた。当時の貴族は競って教会に金品を寄進していたので、この転換で収入の増えた貴族に支持されただけでなく、教会からも信頼された。このことがきっかけで、敵味方がはっきりしない国境付近の有力者たちもエゼルウルフのウェセックスになびいた。・・・
 エゼルウルフが軍議と合意を重んじる戦術を好んだのは、息子アルフレッドのトップダウン式軍隊指揮とは対照をなした。・・・
 ・・・旅の途中で落命していた・・・父エグバート・・・にならいローマへの巡礼を決意した。フランク王国に巡礼のため国内を通過する要望を願い入れ、エゼルウルフは父がなしえなかった偉業を成した。
 相続<について、>・・・明確な規定も慣習もない七王国時代においては、王の代替わりがおきるたびに諍いが起きていた。エゼルウルフの治世も例外でなく、855年末子アルフレッドを伴ってローマ巡礼に赴いたときに・・・息子(次男)エゼルバルドと取り巻きたちが・・・クーデターを起こし、・・・<それ>が内乱に発展し、全王国を東西に分けることで決着した。東をエゼルウルフが、クーデターを起こした息子エゼルバルドが西を、それぞれ領した。・・・
 フランク王国とも父の時代から親密な関係を保っていた。・・・
 エゼルウルフは2度結婚している。1人目はオズブルガ(オズブルフ)で、子らはすべて1人目の妃オズブルガが産んだ子である。・・・
 2人目は西フランク王シャルル2世の娘ジュディスで、結婚したとき12歳、エゼルウルフが858年に死んだ時点で15歳でしかなかった。この妃ジュディスは夫エゼルウルフの死後、その息子<(3男)のエゼルベルト>と結婚した・・・。実際のところ中世初期において父の死後に継母と結婚する例は、ブリテン島のみならずヨーロッパ各地で広くみられたことである。この目的は玉座の世代交代をスムーズにすることである。結婚時の聖別によってジュディスは王妃としての威信を備え、新しい王エゼルバルドがすでに威信を持ったジュディスと夫婦となることで、王国の求心力低下を防いだのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95

 According to Asser, as a boy Alfred ‘surpassed all his brothers, both in wisdom and in all good habits’.

 (注32)アルフレッド大王(Alfred the Great。ウエセックス王:871~886年。アングロサクソン人の王:886?~899年)。「<4男の>兄エゼルレッド王の死後、<ウェセックス>王位を継いだ。・・・最終的にアルフレッドはウェールズの南部からデーンロウを除くイングランドのほぼ全域を支配し<た。>・・・
 デーン人の船を参考としたアルフレッド型軍艦を建造させ、フリースラントなどから水夫を呼び寄せ、海軍を創設した。またデーン人をまねて、馬を軍隊輸送に用いだしたとされる。アルフレッドが英国海軍の父と呼ばれる<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E5%A4%A7%E7%8E%8B

 He was apparently better-looking, better spoken, better behaved, a better huntsman and a better warrior. As a result, insists the king’s own biographer, he was ‘greatly loved, more than all his brothers, by his mother and father – indeed, by everybody – with a universal and profound love’.・・・」(207)

⇒弥生性の塊のようなヴァイキングの系譜に位置づけられるアルフレッドが、どうして全ての人々から愛されたのか、つまりは人間主義的統治を行ったのか、が、本シリーズにおいて、私の解明したい最大の点です。(太田)

(続く)