太田述正コラム#15326(2025.11.21)
<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』を読む(その21)>(2026.2.15公開)


[ウィタン(賢人会議)]

 「ウィタンの起源は、ゲルマン民族の諸王が有力者の助言を求めるという慣行にある。この習慣は、ローマ帝国がブリテン島を放棄した後に成立した多数のアングロサクソン人の王国に受け継がれた。・・・
 ウィタンは「明確な構成や機能を持たない、アメーバ的な組織」であったという。ただし、世俗および聖職の主要貴族の出席が不可欠であったことは確かである。・・・
 アングロサクソン期の<イギリス>には固定的な首都は存在せず、宮廷は移動式であった。ウィタンは王宮、都市、狩猟小屋など様々な場所で開かれた。900年から1066年の間に50以上の開催地が記録されて<いる。>・・・
 リーバーマンは・・・、<1913年に、>王権の<大>権<は>絶対ではなく、ウィタンの役割を無視できないと<主張し>た。
 <もとより、>王、少なくとも王権が議会の構成に与える影響は甚大であった。
 <しかし、>ウィタンは立法において重要な役割を果たした。王とその顧問は法律を起草し、その後ウィタンに諮問し同意を求めた。・・・
 <また、>王は、貴族に負担を強いる特別課税(デーンゲルドなど)についてもその助言と同意を求めた。また、戦争・和平・条約に関する議論も行われた。王の遺言の宣言もウィタンの評議会で行われた。
 さらに、王は会合でブックランド(勅許状を通じて授受される土地)を授与する勅許状を発行した。その署名者リストはウィタンの同意を証明するものであった。
 <そして>、王はウィタンによって選ばれた… 彼は生涯在任する司教や太守を罷免できず、世襲のテーン<(テグン=Thegn)(注39)>をも排除できなかった…<。>

 (注39)「テグンは3つの階級に分かれていた。すなわち、エアルドルマン<(ealdorman)>(後の伯爵)、王のテグン、中間テグンである。・・・王のテグン<は>、王にのみ仕えることからそう呼ばれた。最下層のテグンは中間テグンであり、他のテグンに仕える義務があった。テグンの階級が高ければ高いほど、王に支払うヘリオット<(Heriot)>の額も大きかった。
 テグンは地方政府と軍隊の支柱であった。この階級から保安官が選出され、テグンは地方裁判所に出席して判決を下すことが義務付けられていた。」
https://jmedia.wiki/%25E3%2580%2581/Thegn
 Heriot, from Old English heregeat (“war-gear”), was originally a death-duty in late Anglo-Saxon England, which required that at death, a nobleman provided to his king a given set of military equipment, often including horses, swords, shields, spears and helmets.
https://en.wikipedia.org/wiki/Heriot

 いずれにせよ王は、前王に任命された最高官僚たちと、たとえ嫌っていても死で空席ができるまで共にやっていかざるを得ず、その際も貴族の意向を考慮せずに身内や寵臣を任命することはできなかった。
 修道院長エルフリック<(注40)>は次のように述べている:

 (注40)Ælfric of Eynshamc(955~c.1010年)。
https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86lfric_of_Eynsham

 誰も自分で王になることはできない。民が自ら望む者を王として選ぶのだ。しかし一旦聖別されて王となれば、彼は民に支配権を持ち、その軛を民が首から振り払うことはできない。
 <実際、>王を廃位する権限もウィタンにあったとされるが、その事例は2回しか確認できない。757年のウェセックス王シゲベルト王と、774年のノーサンブリア王アルフレドの廃位である。
 <とまれ、>その力を示す例として、1013年に<イギリス>王エゼルレッド2世がデンマーク王のスヴェン双叉髭王から逃れて国外に出た際、ウィタンはスヴェンを王に推戴した。だが数週間後にスヴェンが死去すると、ウィタンは条件付きでエゼルレッドを亡命先のノルマンディー公国から呼び戻した。『アングロサクソン年代記』によれば、その条件とは「以前より良い統治を行う」という誓約だった。これを受けてエゼルレッドは復位した。エゼルレッド2世の渾名「無策王」の由来となった古英語「Unræd(無策)」は「悪い助言」を意味し、 当時の人々がウィタンの助言責任を指摘していたことを示す。
 1065年末、エドワード懺悔王が昏睡状態となり継承の意思を明確にしないまま翌1月5日に死去した。翌日開かれたウィタンはハロルド・ゴドウィンソンを<イギリス>王に選出した。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A2%E4%BA%BA%E4%BC%9A%E8%AD%B0

(続く)