太田述正コラム#15340(2025.11.28)
<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』を読む(その28)>(2026.2.22公開)
[ハロルド2世]
Harold Godwinson(1022?~1066年。イギリス王:1066年)。
「ハロルド・ゴドウィンソンはクヌート大王と結びつきが強かったとされるアングロサクソン貴族ゴドウィン家の出身である。彼は父であるウェセックス伯ゴドウィンの死後、王国で有数の有力貴族として手腕を振るった、そして1066年1月5日、彼の義弟でもある<イギリス>王エドワード懺悔王が後継者なしに崩御したことを受け、賢人会議の取り決めにより彼はハロルド2世として<イギリス>王に即位した。おそらくハロルドはウエストミンスター寺院で戴冠式を行った初の<イギリス>王であるとされている。そして同年9月後半、<イギリス>王位継承権を主張して<イギリス>に侵攻しヨークに拠点を構えていたノルウェー王ハーラル・シグルズソン率いるノース人ヴァイキングをスタンフォード・ブリッジの戦いで撃滅し、その2週間後に返す刀で、同様の理由で<イギリス>に侵攻していたノルマンディー公ギヨーム2世の軍勢をヘイスティングズで迎え撃った。しかしこの戦いでハロルドは敗れ、戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
「ハーラル<3世”苛烈王”(1015~1066年。ノルウェー王:1046~1066年)>はおそらく、クヌート大王が作り上げていた北海帝国を自分の手で再び作り上げようと試みていたのであろう。そんなハーラルはデンマーク王位を主張し始め、1064年までほぼ毎年、デンマーク沿岸部を荒らし回り、先の同盟者スヴェン2世と戦った。彼の軍事遠征は成功したものの、デンマークを征服することはなかった。
ハーラルはその後デンマーク王位の主張を引き下げたが、それから程なくして、<イギリス>よりとある貴族が彼を訪ねてきた。先のノーザンブリア伯トスティ・ゴドウィンソン<・・ハロルド・ゴドウィンソンの同母弟・・>である。トスティは当時の<イギリス>国王ハロルド・ゴドウィンソンの戴冠に反対しており、ハーラルに対して<イギリス>征服の支援を要請してきたのだ。ハーラルはトスティの要請を受け、1066年9月、10,000の軍団と300隻のロングシップを率いて<イギリス>北部に遠征した。そしてイングランド沿岸を荒らし回り、1066年9月20日、ハーラル・トスティの軍勢を討伐すべく目前に立ちはだかったノーザンブリア伯モルカル・マーシア伯エドウィンの軍勢とヨーク南部のフルフォード村にて衝突し、これを打ち破った。ハーラルの<イギリス>遠征は順調に進むかのように見えたが、ハーラルの思惑は外れた。彼の予想を遥かに上回る早さでイングランド王ハロルド2世率いる<イギリス>主要部隊がノルウェー軍を目掛けて北上してきたのだ。1066年9月25日、ハーラル率いる9千の軍勢はハロルド率いる1万の軍勢から奇襲を受け、ハーラル・トスティともども討ち果たされた。ハーラルの軍勢はほぼ全滅した。現在の歴史家たちは、ハーラルの戦死によって、ノルウェーの<イギリス>遠征は潰えてしまったが、彼の死は遠征のみならず、ヴァイキングの時代に幕を閉じるきっかけにもなったであろうと考えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%AB3%E4%B8%96_(%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E7%8E%8B)
ヘースティングズの戦い<の両軍の>・・・戦力<は、>・・ノルマンディー公国<側が>・・・およそ半分のみが歩兵で、残りは騎兵と弓兵に等分されていた<が、>・・・不明(7,000人から1万2000人の間)<で、>・・・<イギリス>王国<側が>・・・ほとんど全てが歩兵で構成され、僅かな数の弓兵を備えて<いたが、>・・・不明(5,000人から1万3000人の間)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
⇒第一に驚くのは、国の存亡をかけた戦いだというのに、スタンフォード・ブリッジの戦いにせよ、ヘースティングズの戦いにせよ、その双方、とりわけイギリス側の兵力の小ささだ。
「ギヨームのイングランド侵攻に対抗すべく、ハロルド王はワイト島に軍勢を集結させ、ギヨーム軍を待ち受けた。しかし、ギヨームの艦隊はそれから7ヶ月もの間ノルマンディーの港で停泊し続けた。おそらく風向きが悪かったのであろうとされている。9月8日、ハロルド軍は備蓄が底をついたことを受けて軍を解散し、ハロルド自身はロンドンに帰還した。そして同日、ノルウェー王ハーラル苛烈王はハロルド王の弟であるトスティ・ゴドウィンソンを引き連れて、タイン川河口付近に上陸した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B) 前掲
という事情があったとしても、だ。
これは、イギリスは、国民皆兵の体制にあったけれど、それはヴァイキング襲来に対処すべく、城砦に籠もって防御するためのものであり、城外で決戦するためのものではなく、だからこそ、大部分が歩兵であって機動力に乏しかったために、特定の場所に適時適切に大兵力を集めることができなかった、ということなのだろう。
場所が全く異なり、かつ、1世紀ちょっと後のことではあるとはいえ、1180年の富士川の戦いの時の平家側の当初の兵力は、「進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めたことで7万騎(『平家物語』)の大軍」であったのに対し、源氏側も4万騎の大軍であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ことや、双方とも、兵力量が「騎」数で示されるほど、騎兵中心の兵力構成であったこと、と比べてみて欲しい。
ちなみに、1066年のノルマンコンケスト直後のイギリスの推定人口は350万人
https://heimduo.org/what-was-the-population-of-anglo-saxon-england/
1200年の日本の推定人口は、600~750万人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
、とされているので、日本の人口はイギリスの2倍くらいあったところ、そのことを考慮しても、イギリスの兵力は少ないと言ってよかろう。
(今更ながら、平安期の日本が、騎馬遊牧民に対抗できる兵力をかくも見事に生みだしていたことは、世界史上の驚異だと思う。)(太田)
(続く)