太田述正コラム#15364(2025.12.10)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その4)>(2026.3.6公開)
「母方いとこ婚<でもある>・・・この婚姻を通して徳川と豊臣の両家が濃密な親戚の関係となり、その上で、東は徳川が、西は豊臣が、長い地形をもつ日本列島を東西分有し、お互い棲み分けることによって共存共栄を図るような国制、それが家康の描いた永続平和の国家像であったと考えられよう。・・・
⇒だから、「東は徳川が、西は豊臣が、長い地形をもつ日本列島を東西分有し、お互い棲み分けることによって」は間違いだ、と、私は思うのです。(太田)
秀頼が実際に叙任されたのは正二位内大臣であって関白ではなかった。
しかし正二位内大臣とは、父秀吉が、そして従兄の秀次が、ともに関白に任官した時の官位であった。
これによって秀頼が関白に就任できる資格と条件を充足したと見なされたことであったろう。・・・
⇒秀頼の内大臣就任は慶長8年(1603年)4月、結婚は7月であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
前者は、家康から秀頼に贈られた一種の結納以上でも以下でもなく、世間が誤解しないように、家康は、慶長10年(1605年)4月には、わざわざ自身の右大臣職を秀頼に譲って(上掲)、秀頼に関白就任の目がないことを世間に悟らせようとし、その上で、その目的を達成できたとふんで、2年弱後の慶長12年(1607年)にこの右大臣職を辞任させたのでしょう。(太田)
慶長10年<(1605年)4月、家康は征夷大将軍の職を第三男秀忠に継承させた。・・・
<その折、>淀殿が怒りの色を表したのは、秀忠の将軍就任に際して、秀頼にその祝賀のための上洛を家康が求めたことを無礼と見なしてのことであって、秀忠の将軍就任そのものに対してではない・・・。
征夷大将軍職を徳川で世襲しようがしまいが、淀殿と豊臣家にとっては関係ないことなのである。
その職位の高低において画然たる差異があったからである。・・・
足利将軍家の歴代<は、>・・・だいたい正五位下のあたりで・・・将軍に任ぜられている<。>・・・
例外的に四位の者もあるけれども<・・>。
もちろん歴代の足利将軍はそのあとも昇進を続け、太政大臣や皇族待遇である准三后の地位までも到達する<のだ>が<・・。>
これに対して関白は天皇の代理者であることから、大臣身分であることを必須としている。
位も正二位より上であることが求められる。・・・
征夷大将軍とは画然たる差異があった。
もっとも徳川の歴代将軍を見ると将軍任官の時点での官位は、ほぼ全員が正二位内大臣の地位にある。
これは徳川幕府の体制の下では征夷大将軍の地位を引き上げて、関白と同格に位置づけたことを示している。
しかしそれは家康より後の歴代徳川将軍のことであり、秀吉・家康の時代における征夷大将軍は五位相当というのが通念であった。
関白の地位を確立していた秀吉が、征夷大将軍の職にまったく関心を寄せなかったのも、いわば当然のことであった。」(51、66~68)
⇒この笠谷説は、1192年に源頼朝が正二位で将軍職に就いて以来、「それまでは精々従三位までの東方軍事司令官でしかなかったこの職に、あえて左大臣(元々は常設職としては政権最高位であった)にも相当する正二位・・文治5年(1190年)1月5日に従二位から昇叙・・で就いたことは、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わり、以降、幕末まで700年近く続く慣例が創始された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
とされてきた、という「ウィキペディア」説とは対照的な説です。
頼家は従二位で征夷大将軍を宣下されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%B6
けれど、頼家追放の直後の慌ただしい中、実朝は正四位下の時に征夷大将軍を宣下されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D
ところ、次の藤原頼経は、正五位下で征夷大将軍を宣下されていて、どうやら、爾後、このあたりが慣例化したようであり、その限りにおいては、笠谷説が正しそうではあります。(太田)
(続く)