太田述正コラム#15378(2025.12.17)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その8)>(2026.3.13公開)
「
8 ・・・慶長16(1611)年の二条城会見における当初座配は、秀頼が上段の上座、家康が下段の下座であった。家康は下段の平間であるのに対して、秀頼は主君筋の人間を通す上段と「御成りの間」であった。家康はそのような豊臣優位の関係を改めて、豊臣と徳川とが相互対等であるような関係を取り結ぶことを提案したが、秀頼はこれを固く辞退し家康を上座に据えて拝礼した。秀頼は徳川による政治主導を認めたが、それは秀頼の自発的意思によるものであった。徳川側が秀頼に用意した当初の座配は上段の上座であったことに留意しなければならない。
⇒「慶長10年(1605年)5月8日、家康が高台院を通じて、秀頼に臣下の礼を取るように、秀頼の生母である淀殿に要求した。領地を削減されたとは言え、秀吉以来の豊臣氏の家格を守ろうとする淀殿が遺憾の意を表明し、会見を拒絶した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
という経緯を踏まえれば、今回は、淀殿が秀頼が臣下の礼を取ることを飲んだ上で秀頼を送り出した、と見るのが自然でしょう。
なお、私は、大坂の陣の時に秀頼が陣頭指揮を一度もとらなかったことから、彼はアカンタレで、最後まで豊臣家は淀殿が仕切っていた、と見ています。
そうであるとすると、この会見の時の成り行きは、全て、事前に淀殿と家康との間で調整済みの歌舞伎であった、ということになります。
また、「二言、三言話しただけで天下人だけが自然と身にまとえる悠揚迫らぬものを持っていると分かった。その賢さにも舌を巻き、さすがのわしも気圧された」
https://rekisi-daisuki.com/entry/2021-06-23-2
に典拠が付されていないけれど、これは、恐らくは、後付けで、この時、家康がそういう印象を秀頼について抱いたと語ったということにしたものであり、もちろん、それは、豊臣家を滅亡させなければならないことを秀忠を始めとする徳川幕府の面々に納得させるための材料として、(家康のその折の秀頼についての本当の印象とは真逆の偽言ながら、)使ったものでしょう。(太田)
9 この徳川幕府の政治的主導を秀頼が受け入れた二条城会見を踏まえて、家康は全国の諸大名から幕府の発する(「江戸より」の)法令を遵守する旨の誓詞を徴するが、豊臣秀頼はこの誓約者に含まれておらず、この段階においてもなお超然たる存在であった。」(88)
⇒「この会見<の>・・・翌4月12日に挙行された後水尾天皇の即位式を、家康は裹頭(僧兵が被る目出しの覆面)でお忍びとして見物、式後に義直・頼宣と共に改めて参内して即位を賀した。<また、>同日、西国大名らに対して三カ条の法令を示して誓紙を取っており、これにより徳川公儀の天下支配が概ね成ったともいわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
という史実は、この会見時には既に「三カ条の法令を示して」西国大名らから「誓紙を取<る>手配がなされていたことを推測させるものであり、このことも、私の上記指摘を裏付けているのではないでしょうか。
さて、秀頼が「超然たる存在であった」ことが事実であったとしても、それは、私が江戸城普請に関して示唆しているように、「家長」で位も高い家康に対し、秀頼と秀忠が服従していたけれど、この二人は、それ以外の大名衆よりは上位であるという意味で「超然たる存在であった」だけのことではないでしょうか。(太田)
(続く)