太田述正コラム#15382(2025.12.19)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その10)>(2026.3.15公開)

 「康重は・・・家康の命により・・・八上城を廃城にして丹波篠山の地に新規の城郭を構えることとなる。
 しかもその城の造営は天下普請とされ、姫路城主の池田輝政が主管となり西国方の20の大名が動員されての大事業としてなされた。・・・
 家康はさらに<その>慶長14年に、譜代大名で下総国山崎1万2000石の岡部長盛<(注7)>を丹波亀山(現、亀岡)3万2000石に封じ、やはり亀山城を天下普請をもって堅固に改修した。

 (注7)1568~1632年。「岡部氏<は>藤原南家<。>・・・下総国山崎藩主、丹波国亀山藩主、丹波福知山藩主、美濃国大垣藩初代藩主。岸和田藩岡部家初代。武勇に優れ、「岡部の黒鬼」と称された。岡部正綱の長男」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E7%9B%9B
 「岡部正綱<に関しては、>・・・今川家の譜代家臣<からスタートし、>・・・武田氏従属後は武田氏の駿河侵攻に貢献し<たが、>・・・天正9年(1581年)に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し(高天神城の戦い)、一門で同城城代の岡部元信らが討ち死にし<ており、>武田氏の退潮が著しい中で翌年(1582年)2月の織田・徳川軍による武田攻めが開始される(甲州征伐)と、穴山信君と共に徳川家康に内通した。3月に武田氏が滅亡すると徳川家康の家臣となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E6%AD%A3%E7%B6%B1

 これら一連の措置が、大坂包囲網の構築を意味していることは一目瞭然であろう。
 篠山・亀山と連繋する先には京都の伏見城があり、この三城連繋による大坂包囲の形成が顕わであった。・・・
 家康はこれらに先立って<慶長>13年に、伊賀国に20万石を領有していた筒井定次(コラム#11988、12124、12328、12383)>を不行状という理由で改易し、豊臣大名でありながら親徳川の藤堂高虎を伊予国安濃津に移し、伊賀国とも計22万石として配した。
 これまた大坂包囲態勢の重要な拠点形成であったと言いえよう。・・・
 家康は何故に慶長13年を境に、<このように、>豊臣家に対して敵対的施策をとるようになったのか?・・・
 慶長13年に入ってからであるが、・・・秀頼が疱瘡に罹って一時病状が危うい状態にまで追い込まれた<時、>・・・福島正則を始めとする豊臣恩顧の大名たちが相次いで、家康の許可を得ることもなく、大坂城に参向し<たことに、>・・・家康は愕然としたことであろう。・・・
 ここに至って、家康は大坂城の秀頼に対して、力を用いた制圧策にに踏み切らねばならないと決断した<の>であろう・・・。・・・

⇒慶長16年(1611年)3月に、家康・・家康死去後は秀忠(太田)・・の秀頼に対する優位を明確させ、その2年後に秀頼包囲網を築き始めたのは、当初からの家康の計画通りの動きでしょう。
 後は、開戦の機会を虎視眈々と狙っていた、と。
 なお、病気見舞いの際に密議が交わせるわけもなく、そもそもそんな時にまで、家康の許可が必要、とは誰も考えていなかったからこそ、許可なしでの大坂城への参向が行われた、と、私は考えています。(太田)

 不思議なことであるが、二条城会見を行った慶長16(1611)年3月以降、豊臣家にとって杖柱と頼む大名たちが相次いで物故する。
 二条城会見に同席して秀頼の身の安全に一命を賭していた清正は、そののち熊本への帰国の船中で発病し、三か月後に亡くなってしまった。
 同じく会見の場で秀頼を見守った浅野幸長は2年後の慶長18年8月に病死。
 そしてこの18年には池田輝政が、翌19年には父利家から豊臣家と秀頼の行く末を託されていた前田利長らも相次いで亡くなった。・・・
 福島正則が残ったが、正則は清正や幸長があればこそ力を発揮しうるものの、ひとりでは確たる信念をもって行動することができるような人物ではなかった。
 正則は、ただ大勢に流されていくだけでしかなかった。」(95~97、100~101、124)

⇒ここは、笠谷に同意です。(太田)

(続く)