太田述正コラム#15384(2025.12.20)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その11)>(2026.3.16公開)
「・・・そのような時に勃発したのが方広寺鐘銘問題であった。・・・
「国家安康」と「君臣豊楽」の四文字が疑惑の対象となっ<た>・・・が、・・・前者の徳川家康については「家康」の実名、すなわち諱があらわである<のに対し、>後者については「豊臣」の文字をおりこんでいるが、それは苗字であ<り、>苗字は明記しても何ら不都合は生じない。・・・
豊臣側の諱は「秀吉」ないし「秀頼」。
ここには「秀」や「吉」のような祝賀の文章を記すにふさわしい文字が存在している。
しかるに・・・豊臣家の委嘱を受けた禅僧清韓<(コラム#12328)>・・・は、それらを用いず「豊臣」の苗字をもって撰文した。
「秀吉」「秀頼」の諱を意図的に避けたのではないか。・・・
<ちなみに、>実名は諱と称して「忌む名」の意であり、それをあらわに表記することはタブーであり非礼とされていた・・・。・・・
⇒笠谷は、一体誰が鐘銘のこの箇所の問題性に気付き、それを徳川方に伝えたのか、をスルーしてしまっていますが、私は、以前(コラム#12328で)織田信長の猶子の、天台座主、方広寺別当の常胤法親王であろう、と、指摘したことがあります。(太田)
<この問題を受け、家康から、>淀殿のもとには、・・・片桐且元<(注8)>・・・の口から発せられた冷厳な強硬策と、大蔵卿たちを介した猫なで声にも似た家康の甘言との、両極端の回答がもたらされ<た>。
(注8)「慶長4年(1599年)1月10日、豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸のない徳川家康は伏見城に戻るまで、・・・片桐且元・・・の屋敷に2泊している。以後2人は連絡を取り続けていくことになる。・・・
関ヶ原の戦いでは文治派奉行衆を中心とした石田三成方(西軍)に付き、・・・大津城の戦いに、増田長盛と同じく家臣を派遣したが、武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍勝利の後は、長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走した。慶長6年正月に1万8千石の加増を受け、2万8千石を領する「小名」となり、大和竜田城を居城としている。閏3月には小出秀政とともに豊臣宗家の家老に取り立てられた。また同じころ、弟貞隆が1万5千石と茨木城を与えられている。
以降、家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となり、大坂総奉行と呼ばれる。当初は全国の蔵入地を総監する立場から、徳川氏の所務方の大久保長安の検地などに協力。また寺社奉行として、当初は豊臣公儀の政策だった畿内を中心とした多数の寺院復興事業に取り組む。慶長9年(1604年)に小出秀政が没して以降は唯一の家老となり、豊臣宗家の外交・財政を一手に取り仕切った。現在発見されている秀頼の発給文書131通のうち、且元が取次者となっているものは100通と大半を<占>めている。淀殿の信頼も厚く、「秀頼の親代わりとなってほしい」「(且元の忠節は)命ある限り忘れることはない」と手紙に記している。
慶長9年(1604年)、秀吉7回忌と同15年(1610年)の13回忌の大祭(臨時祭礼)で総奉行を務めた。また、朝廷との橋渡しを務めた・・・。
慶長10年(1605年)ごろからは、家康から豊臣家直轄地の摂津国・河内国・和泉国・小豆島を管轄する国奉行のような立場に任じられる。同年までを区切りに行われた本多正純による西国33国の郷帳・国絵図作成事業では、奉行担当国の絵図作成だけではなく、家康在所の伏見城内において全般的な実務にも当たっている。慶長13年(1608年)、河内国狭山藩の所領にまたがる狭山池の治水事業に当たっている。
慶長16年(1611年)、駿府城を本居としていた家康が4年ぶりに上洛。これより前に家康から秀頼に二条城での会見要請があり、秀頼の母・淀殿は「家康から大坂城へ来るべき」と難を示すが、且元が「関東と不和となり合戦起こらんこと必定」と上洛を説得をして会見を実現させた。・・・3月28日の二条城会見では且元も同席した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83
且元は家康に面会したわけではないので、且元の口にした三条件は且元自身の勝手な思い込みと見なされ、しかも大蔵卿らに対する家康の穏便で丁重な態度にかんがみるならば、且元の態度はいかにも徳川におもねった、豊臣を売らんばかりの佞臣の所為に映った。・・・
⇒「近年の・・・草刈貴裕<(注9)の、>・・・「方広寺大仏鐘銘事件をめぐる片桐且元と大蔵卿局の動向について」(『十六世紀史論叢』15号、2021年)・・・に<おいて>且元と大蔵卿局は共に同じ場所で、徳川方から同じ内容を聞いていたと<し>、このことから徳川方による分断工作は行われていなかったと<し、>・・・2人の帰坂の日程、そして2人が行った交渉からも、2人は共に帰り、駿府にて出された条件について話し合ったと考えられる<とする>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83#cite_note-%E5%90%8D%E5%89%8D%E3%81%AA%E3%81%97-20230316125759-57
(注9)2023年6月当時、日本大学大学院文学研究科日本史専攻博士後期課程。
https://nichidai-shigakukai.cocolog-nifty.com/blog/files/2023e5b9b4e5baa6e697a5e69cace5a4a7e5ada6e58fb2e5ada6e4bc9ae5a4a7e4bc9ae6a188e58685.pdf
説を、笠谷は歯牙にもかけていないようですが、ここでは、立ち入らないことにします。(太田)
こうして大坂城の豊臣方と茨木城に退<避>した且元側とが軍事的対峙の情況に立ち至ったのであるが、家康にとっては、これこそ待ちに待った開戦の名分を獲得した瞬間であった。
且元は豊臣家の家老であるが、同時に徳川側との連絡調整の任にあたっていたことから、家康の「お声がかり<(注9)>の者」という扱いになる。
(注9)声掛(こえがかり)。「身分や地位の高い人から、特別の命令や処遇を受けること。また、それを受けた人。多く接頭語「お」を付けた形で用いる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%B0%E6%8E%9B-2036957
家康が日頃から親密に接している人間である。
その者に対して討伐の軍を差し向けようとするのは、家康に対する公然たる敵対者となることを意味する。
それ故に、軍を動員してその敵対者を討伐するというロジックである。
これが大坂冬の陣の開戦理由である。」(125~126、129、131、134~135)
⇒ここは、首肯できます。
ただ、草刈説を前提にした方が、そこに至る大坂方の動きの説明がより腑に落ちると私は思うのですが・・。(太田)
(続く)