太田述正コラム#15386(2025.12.21)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その12)>(2026.3.17公開)
「・・・家康は豊臣恩顧の大名を動員するに当たっては、かなりの配慮をしている。
まず秀吉時代以来の武将で、秀頼に対しても臣下の礼をとっていた武将、すなわち福島正則・黒田長政・加藤嘉明らは江戸屋敷に留め置かれて、大坂城攻めには参加させなかった。
大坂攻めには、彼らの嫡子が家臣団を率いて参加していた。
これは主君に向かって弓を引くというのは、武士の道の観点から嫌われ、武士の倫理性を重視する家康の立場からは避けたいという側面と、また彼らが戦場において豊臣方についてしまうという危険を避けるためでもあったろう。
その中で藤堂高虎だけは別格扱いで、それらの顧慮なく家康の忠実な臣下として大坂冬・夏の両陣において存分に働いていた。・・・」(137)
⇒藤堂高虎は、墓所が日蓮宗寺院である伊賀の上行寺
https://www.mietabi.net/igasi/jyougyou.html
と天台宗寺院である津の寒松院
https://www.mietabi.net/tusi/kansyou.html
にあり、どちらの寺院も藤堂家代々の菩提寺、という奇妙なことになっています。
もう一つ、天台宗寺院である江戸の東叡山寛永寺寒松院に、高虎単独の墓があります。
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/kanshoin/
こんな奇妙なことになっているのは、「元和2年(1616年)、他界する10日前に家康は高虎を枕頭に招き、[高虎公の手を取って「あなたがいなかったら天下太平の今日を迎えることは難しかった。心より感謝しています。ただ、心残りはあなたと私とで宗門が違っているため、来世の浄土が違ってしまいます。それを思うと辛く寂しい」と涙を流されました。それを聞いた高虎公も涙を流し「私はまったく至らない者ですが、上様と同じ天台宗に改宗いたします」と
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/kanshoin/ ]答えたとされる(『西嶋八兵衛留書』)。・・・
寛永7年(1630年)10月5日に江戸の藤堂藩邸にて死去。・・・戒名は「寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都」。天海僧正は「寒風に立ち向かう松の木」の意味をもって、寒松院と命名した。高虎は・・・加藤嘉明や加藤清正ら急進的武断派<・・私見では秀吉流日蓮主義者達・・>とは折り合いが悪かったとされている<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
といった経緯があったからですが、ここから分かるのは、そもそも、高虎は、敬虔な日蓮宗信徒ではなく、日蓮主義者でもなかったところの、極めて人を見る能力が高く、かつ、世渡りに長けた人物であったことです。
高虎が、家康の浄土宗に改宗せず、日蓮宗と浄土宗双方の母体である天台宗への改宗を約束することで、日蓮宗と家康のどちらに対しても配慮し、自分に(日蓮宗の)法名は付けず(天台宗の)戒名をつけ、墓も、日蓮宗と天台宗の寺院に設けた、ということには、ただただ感心するほかありません。
「高虎は、<当時の主君の>豊臣秀長の意を受けて家康と直接手紙をやりとりした。これらのなかには、家康が高虎個人に宛てた陣中見舞いもあり、後年の両者の親密な関係の基礎が、この時代に築かれていたことが察せられる。元和2年(1616年)4月1日、病状が悪化した家康は堀直寄を呼び、「国家に万一のことがあれば高虎を先鋒とし、彦根の井伊を二陣とせよ。汝はその中間に備えて横槍をせよ」と遺言したとされる。『忠勤録』には国に何かあるときは高虎を一番槍に、二番槍は井伊直孝にと命じた。そのためか、藤堂家と井伊家は幕末まで転封がなかった。高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。家康が理由を訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち・・・に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという」(上掲)ということも、この際、紹介しておきましょう。(太田)
(続く)