太田述正コラム#4074(2010.6.16)
<悪について(その1)>(2010.10.25公開)
1 始めに
 絶対的な悪なんて存在しないと一般の日本人やイギリス人は思っているのではないでしょうか。
 しかし、英国で、テリー・イーグルトン(Terry Eagleton)が ‘On Evil’ を上梓し、絶対的な悪の存在を主張し、これが英国を中心に、私がこれまで見たことがないほど沢山の書評で取り上げられたとなれば、これら書評等をもとに、この本の内容を概要なりともお伝えしないわけにはいきますまい。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2010/may/30/terry-eagleton-evil-book-review
(6月15日アクセス。以下同じ)
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article7138069.ece
C:http://www.boston.com/ae/books/articles/2010/05/14/in_his_latest_book_terry_eagleton_explores_the_concept_of_evil/
D:http://www.literaryreview.co.uk/holloway_06_10.html
E:http://www.davidosler.com/2010/06/book-review-on-evil-by-terry-eagleton/
F:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article7117980.ece?print=yes&randnum=1276607428546
G:http://www.irishtimes.com/newspaper/weekend/2010/0417/1224268509141_pf.html
H:http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704117304575138424079313214.htmlI:http://www.spiked-online.com/index.php/site/reviewofbooks_article/8347
J:http://www.newstatesman.com/print/201004010013
(6月6日アクセス)(抜粋)
 なお、イーグルトンは、現在、英マンチェスター大学教授ですが、アイルランド国立大学(NUI)ガルウェー校(Galway)、英ランカスター大学、米ノートルダム大学を歴任してきている、英文学研究者・文藝評論家であり、カトリック信徒として人となったマルクス主義者です。先だっては、マルクス主義者なのに神の存在を擁護する本を上梓して話題になりました。(C、E、G、H、J)
2 悪について
 (1)問題の所在
 「・・何世紀にもわたって、大勢の頭の良い人々が、悪(evil)の存在は神の不存在を必然的に伴うのかどうかを議論してきた。
 確かに、神・・少なくとも全能で慈悲深い神・・が痛み、苦悩、暴虐、そして堕落(depravity)が栄えることなど許すはずがない。
 だから、悪が存在することは、神の不存在を意味することになるのではないか、と。
 それに対する答えとして、信心者達は数え切れないほどの神義論(theodicy)・・善と悪の存在をどう説明するかををめぐる諸教義・・を生み出してきた。
 例えば、善であって全能の神といえども、人間が自由意思を所有することを欲する・・その自由意思には悪を選択する可能性を含む・・と仮定することはもっともらしいように見える。
 それとも、悪は、神だけが知っている深い善に奉仕するのだけれど、我々のような生命に限りある存在にはそれが分からない、ということなのかもしれない。・・・
 しかし、とどのつまり、神を引き立て役としない限り、最も凶悪な行為ですら、その言葉が示唆しているところの真に並外れた意味において「悪」と呼べると言い切ることは困難なのだ。
 <以上は、神の存在を前提とする世界の話だ。>
 では、<神が存在を前提としない、>世俗的な世界においては、悪とはいかなる意味を持っているのだろうか。
 イーグルトン氏が最初に下す洞察はこういうものだ。
 すなわち、仮に、悪が通常の人間の邪悪さを超えたものでなければならないとしたら、かつまた、<神の存在を前提とするところの、>サタン的(satanic)とか悪魔的(demonic)といった概念を使わないとしたら、悪は、我々がいくつかの理由から「非人間的」と呼ぶ用意があるところの、一種の冷酷な行為(cruelty)ないし非道徳性を必然的に伴わなければならない、と。
 しかし、・・・どうして人間が非人間的にふるまえるのだろうか。
 それは、言葉において矛盾に見える。・・・」(H)
(続く)