太田述正コラム#9601(2018.1.23)
<大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』を読む(その3)>(2018.5.9公開)

 「将官や佐官級の戦犯は、命令を下す立場であったため、罪は重い。
 だが、自らの手で実際の犯罪行為を犯しておらず、認罪の進み具合も緩慢であった。
 他方で、下士官以下の戦犯は軍隊組織の末端にいたため、その全体的な動きは把握しておらず、高等教育を受けたものも少なかったことから「学習反省」で用いられた教材を理解するには時間を要した。
 その点、ちょうどその中間にいた尉官級のなかには大卒者も多く、軍の作戦計画そのものも把握し、具体的な罪行の認識にも強いものがあった。
 この尉官級の戦犯のなかで、最も衝撃的な担白を行ったのが宮崎弘(ひろむ)であった。
 宮崎は広島出身で、第39師団第232連隊第1大隊機関銃第1中隊の中隊長であり、大尉であった。・・・
 1954年4月のある日、突然、所内放送で全員に集合がかけられた。・・・
 壇上に現れた宮崎は、・・・用意していた文書を取り出して読み上げた。・・・
 「私は天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主になり、アジアを指導、統治するのは当然のことであり、神から課せられた使命であると思っていました。・・・
 そして・・・いわゆる三光作戦をより積極的にやりとげることこそ、忠君愛国の道であり、戦争勝利の道であると信じて実行してきました。」
 宮崎は少尉時代初年兵の訓練のため、スパイ容疑をかけられた十数名の農民を刺殺させたことを暴露し、更に1943年大隊長時代、・・・<某>部落の襲撃計画を進言し、自らも加わって村民数百名を皆殺しにした事件を語った。」(67~70)

 「このような人道的待遇を与えられた太原組の戦犯たちは、・・・中川博(北支那方面軍司令部情報版通訳)や鉄村豪(北支那方面軍や線兵器廠天津支廠伍長)らが<シベリア抑留組>同様に学習委員会を組織し、その下に12の学習小組を作ることで「学習反省」や「認罪担白」を進めていった。
 そして、重要戦犯に対する集中的な「尋問調査」が始まる1954年春までには大部分の戦犯たちが自らの罪を認めるのである。」(82)

⇒1. 「認罪」も「担白」も漢語であり、
https://en.wiktionary.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%BD%AA
https://cjjc.weblio.jp/content/%E5%9D%A6%E7%99%BD
そのまま、本の中で断り書きも付けずに使用し続ける大澤の、こういうところにもその一端が現れているところの、中共事大主義とでも形容すべきものはいかがなものか、と思います。
 せめて、それぞれ、「」を付けるべきでした。
 (もちろん、戦犯にも・・。)
 また、いずれにせよ、この二つの言葉の意味の違いを記して欲しかったところです。
 2. 大澤の「尉官級罪行認識強」説は、太原組の「認罪」「担白」推進者達が軍属や下士官であったという一点だけとっても、思い付きの域を出ていないことが分かります。
 3. 「戦犯」容疑については、国民党政府軍(国共合作下の中共軍を含む)が便衣兵によるゲリラ的攻撃を日本軍に対してしばしば行っており、その現行犯容疑者に捕虜の資格を与えず、裁判を経て処刑することは、当時の慣習国際法違反にはあたりません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%BF%E8%A1%A3%E5%85%B5
 国際法違反は、「裁判を経ずして」、容疑者だけでなく「その家族」をも殺害した点です。
 しかし、例えば、これに類することを、まさに、1946年2月の通化事件・・在留日本人達が武装蜂起したところ、直ちに、老若男女を問わず、日本人約3,000人が殺害された・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6#蜂起
の際、中共軍は行っており、当時の、支那において(、国民党政府軍は言うまでもなく、中共軍に関しても、)国際法など無視されていたことを物語っています。
 なお、これは、日本人に対するものではありませんが、国共内戦の一環である長春包囲戦(1948年5~10月)において、中共軍は、一般市民の脱出を許さず、国民党軍以外の約30万人の一般民衆を餓死させています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%98%A5%E5%8C%85%E5%9B%B2%E6%88%A6
 中共軍は・・この時の中国国民党軍もそうですが・・、一般市民の生命のことなど顧慮しない、ということです。
 敵側が国際法など無視しているという環境下では、日本側だけに国際法順守を求めるのは無理な算段である、というものです。
 4. 「戦犯」容疑者達が、抑留当局に対して好意を抱き迎合する、というのは典型的なストックホルム症候群であるところ、大変な厚遇を受けていた彼らが、重篤のストックホルム症候群を呈するのはむしろ当然ですが、かかる観点を全く無視している点でも、大澤はいかがなものかと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%A0%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4 ※
 ちなみに、宮崎が、「三光作戦」という、日本軍が行わなかったとまでは言えなくとも、少なくとも使ったことのない言葉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%BC%E6%BB%85%E4%BD%9C%E6%88%A6
を用いていること一つとっても、彼の「告白」文は、彼が収容所当局の意のあるところを忖度して書き、当局の審査、添削を経たものである、と見てよいでしょう。
 なお、宮崎の言動が、まさにこの症候群の産物以外の何物でもなかったことは、彼が「帰国後は特筆すべき謝罪活動を行わなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AB%E9%A0%86%E6%88%A6%E7%8A%AF%E7%AE%A1%E7%90%86%E6%89%80
ことからも推認できるところです。
 (ストックホルム症候群に罹った者は、拘束状態から解放された後も、拘束者の擁護を続けるケースが多々ある(※)のですが・・。)(太田)

(続く)