太田述正コラム#9609(2018.1.27)
<大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』を読む(その6)>(2018.5.13公開)

 「1960年・・・中帰連<(注1)は>・・・元新京高等法院審判官の飯守重任<(注2)>(しげとう)が除名された。

 (注1)中国帰還者連絡会。「撫順戦犯管理所に戦争犯罪人として抑留された旧日本軍の軍人が帰国後の1957年9月24日に結成した団体。・・・「反戦平和運動」、「日中友好運動」を展開した。・・・1966年、日中友好協会が分裂したことを機に、中国帰還者連絡会もまた分裂し、運動は低迷したが、1986年には統一大会を開催し、中国帰還者連絡会は再度統一した。・・・2002年において全国組織としては解散されることとなり、撫順の奇蹟を受け継ぐ会へ事業が引き継がれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B8%B0%E9%82%84%E8%80%85%E9%80%A3%E7%B5%A1%E4%BC%9A
 (注2)1906~80年。「東京帝国大学<法学部>卒業後、裁判官生活に入る。1930年代に満州国司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AE%88%E9%87%8D%E4%BB%BB

 飯守は元最高裁長官の田中耕太郎の実弟であり、当時は東京地裁の判事を務めていた。・・・<当時、>撫順での自らの認罪担白について・・・「…あの手記は私の作文である。中帰連が純然たる親睦団体なら喜んで参加するが、日中友好だの原水爆禁止などという限り参加の意志はない。判事だからではなく、私の思想と相容れないからである」と語った。
 のちに1964年7月10日、毛沢東は社会党の佐々木更三<(注3)>や黒田寿男<(注4)>らと会見した際、戦犯帰国者のなかで「ひとりだけ中国に反対している」と飯守を暗に批判した。

 (注3)1900~85年。「苦学しながら日本大学専門部政治科を卒業した。・・・社会党・・・委員長就任演説で「アメリカ帝国主義は世界人類の敵」と述べ<た。>・・・親中派として知られ、1972年(昭和47年)田中角栄首相の依頼で成田知巳委員長、公明党の竹入義勝委員長らと中華人民共和国と極秘折衝し日中国交正常化に貢献している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%9B%B4%E4%B8%89
 (注4)1899~1986年。「東京帝国大学法学部を卒業。在学中に新人会で活動し、法曹資格を得て後は自由法曹団で労働運動・農民運動を支援した。・・・1936年に行われた第19回衆議院議員総選挙に・・・当選するものの翌1937年に人民戦線事件で・・・検挙、政界から追放の憂き目に遭った。戦後、日本社会党の結成に参加。最左派・・・
 日中友好協会会長など・・・を歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AF%BF%E7%94%B7

 だが、飯守はその後も鹿児島地裁所長や京都産業大学法学部教授などを歴任し、自らを「ウルトラ右翼」や「保守反動」な法曹と評しつつ、「共産主義の国有・国営経済、プロレタリアート独裁の政治は自然法に反する反人道主義的なものだという考え方」に基づき、反共的な言動を繰り返した。」(193~195)

⇒飯守のウィキペディア全体に目を通すことをお勧めしますが、鮮明に記憶に残っている、有名なお騒がせ裁判官でした。
 彼が、中共からの「戦犯」帰国者の一人であったことは知りませんでしたが、せっかく支那に長期「滞在」する機会が与えられたところの、気骨あるインテリであったにもかかわらず、毛沢東/中国共産党について、ついに皮相的な見方をしたままで生涯を終えたらしいことは、惜しまれます。
 (飯守とは正反対の、上出の社会党の親中派たる佐々木と黒田・・飯守と同じ東大法卒・・も、毛沢東/中国共産党について、皮相な見方しかできなかったのですから、飯守を批判するのは酷というものでしょうね。
 なお、この3人には、つくづく、廣松渉の最晩年のマルクス主義や中共に係る言説(コラム#省略)を聞かせてあげたかったと思います。)
 それはそれとして、彼の共産主義観は、満州国出向日本人官僚達のスターリン主義観の一端を伺わせるもの、と、我々は受け止めていいのではないでしょうか。(太田)

(完)